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何と言うことは無い一日。何と言うことは無い日常。
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線路脇を、何も考えずに、ただ、とことこ歩く。

危ないとか、考えない。

フリースのパーカーのポケットに、両手を突っ込んで、足には、真新しいスニーカー。
ポケットの中の手の中にまで、風が吹き込んで来るけれど、汗ばんだ身体には、それが丁度良く気持ち良く感じる。
ウォーキングに丁度いい天気。

頭の上には羊雲。

青地に白は、好きな配色だ。何処までも拡がる青い空に、ふわふわと浮かぶ、雲は地平線まで、追って行きたくなる、白い道標。

お腹は空かない。いや、さっき、立ち食い蕎麦を食べて来た。蕎麦は茹で過ぎず、煮過ぎないのが、歯ざわりが残って、麺つゆと良く絡んで、七味唐辛子の匂いと風味とで、ベストマッチだと思う。

僕だけだろうか?そう思うのは?

歩き続けるのは、寒さを感じない為でもある。夜の気温が、朝まで保ち続ける時期でも無くなって来た。毛布をあと一枚。足元に、いつでも広げられるようにしようかどうしようか、悩む頃合いだ。

いつまで歩いても、電車が来ない。赤錆びた線路に、朽ちかけて、黒くなった枕木。
放棄された悲しみを、すいすい飛び続ける赤とんぼに向けて、訴えているような、ざっくばらんに形容すると、廃線であった。
いつから、こうなのだろうか?
僕の生まれる前から、この線路は使われなかったのでは無いだろうか?

ぽくぽく蹴飛ばし続ける砂利までもが、なにやら古びた風合いを醸し出している。

人間が旅している感覚に陥る事が出来るのは、やはり、基本は徒歩なのではあるまいか。
車窓は、CGの合成風景のようなもので、実感に乏しい。車を運転して、アクセルとブレーキを踏み続けて、少しく痛くなった足よりも、土踏まずをほぐしてようやっと、人心地が付いた足の方が、『ご苦労さん』と言って遣りたくなる。

今すぐ、くるりとこれまで歩いて来た方向に背を向けて、反対方向に歩けば、理論的には海に辿り着く事になる。
その場所まで、何時間かかるかかからないかと言う事実と推論は、また別問題。

潮騒に背を向けて、僕は歩く。
そうしていると、また、別の事が気に掛かる。小学校の体育の時間、捻挫した足は痛まないのか、とか。
スニーカーは、陽射しに焼かれたアスファルトを歩くのには向いているのか向いていないのか、とか。
そもそも、運動靴なんだろう?登山靴とも、バッシューとも違うのだが、幾つかの機能と用途が混在しているものなのだっけか?
熱中症は、歩いている人間には、発症しないのか、とか。
マラソン選手の日射病は、あまり聞いたことは無いかも知れない。
転がる石には、苔は生えない、と言うことか?

いつもの退屈紛れの考え事かも知れないが。

単純作業は、考え事に向く。それは確かだ。

例えば、僕はリンゴを包丁で皮を剥く。それは当然、当たり前だろうが、しかし、剥き始めから、剥き終わりまで、ほぼ、皮を切らないで、剥く事が出来る。
梨でも試して見た。同じ事だった。
不思議な事に、上手く行くと、何度でも試して見たくなる。

手が勝手に動くのが解る。頭は空っぽになって行く。

そう言えば。と、僕は、思う。

あれは、どうだっけ?

ほこ、と、幾つものデータから、答えが導かれる。
あれで、良いのではないのかな?

足は、ほぼ、自動的に、いや、歩くという動作を繰り返し続ける自動機械になったように、交互に繰り返し、前に突き出される。

僕は、歩き続ける。
晴れた空の下を、横たわる、赤い線路。それに沿って、歩いて行く僕。

歩いて行くと、歩き続ける事が当たり前のようになる。歩き続けると、歩いて行く事が、楽しくなる。
そういうものなのかも知れない。

一組の、一方が欠けても成り立たないパズルのピースになったように。
一幅の風景画になったように。
僕は歩いて行く。なかなか止まらない。

しかし。
僕の歩みを止めた物は、意外な物であった。

線路が、ぶち切れていた。太い鋼の線路が、無残な姿をさらして。
正確に言うと、切れているのは、一部分、長さにして三メートル程。
三メートル向こうに、これも、無残な切り口を此方に見せて、赤い線路が、また、地平の彼方まで、黒い枕木と共に続いて行くのが見える。

切れた部分は、掘り返したのかどうかすらもわからない、砂利の積もった、大人一人が容易に中に入れそうな大きな窪みになっている。

だが。僕の足を止めたのは、その窪みだけでは無い。
その、窪みの中に有る物だ。

花が。
窪みの中に、水が溜まって、その中に、種がこぼれたのだろうか。
これまで、見たことも無い花が、長く細い首を伸ばして、緋やオレンジの繊細な花弁を一杯に広げて咲いていた。
何本も何本も。
蒼い空の下で。
風に揺れながら。何と暢気な風景。
線路に花。これまで、この線路を通ったろう幾多の列車にその乗客に捧げる、天然の花束の如くに。

我に返って、匂いを嗅ごうと、一歩足を踏み出して、砂利の感触を確かめた瞬間に。

僕は、覚醒した。


まず、眼に入ったのは、病院の病室ならではの、白い天井。

そして。両親の泣き顔。

僕は、ゆっくり、息を吐き出し、吸う。

途端に、聴覚が戻って来た。

ああ。雨が降っているのだな。際限も無く、天より降り注ぐ、水の雫が、今、僕のいるこの建物を濡らし続けている。

両親の声が聞こえた。

僕の名前を呼ぶ。

もう一度、息を深く吸い込む。

ゆっくりと、吐き出す代わりに、僕は、返事をした。凄まじく、情けなくなるくらいに小さな声で。

呼吸器を通して。


僕は、九死に一生を得たと言う事になるのだろう。

取り敢えず、事故の原因を問うのは今は止めておこうと思う。

助かった事が、今は何よりだ。


人は、臨死体験を、夢だと言う。しかし、99%が夢かそれに類したもの(幻とか幻覚とか)であっても、あとの一パーセントまでがそうだと断定するのは、僕としては、抵抗が有る。

何となれば。だ。

夢で見た、あの花を、僕は、図鑑で探して見た。ネットで検索もして見た。

信じないかも知れないが、ある程度は、グーグルで探し出せる。遣ってご覧。

これが、何処にも無いのだ。笑っちゃう位、見当たらない。
何科に属する花卉であるかも解らないのだから、或る意味当然なのかも知れないのだが。

あの花は、あえて言えば、薔薇にもポピーにも似ていた。牡丹や百合、春咲きシュウメイギクの良い所を兼ね備えていた。

しかし、その中の何にも似ていないのだ。

夢だとすれば、僕の脳髄は、本人の正念場になかなか、頑張ってオリジナルな活動を見せてくれた事になる。

身体はフルに、正常な活動を取り戻さんとスロットル全開でいたと言うのに。

とにかく、僕は戻って来た。

蒼い空も、変わらず僕の真上に広がっている。

また、いつか、旅に出る事も有るだろう。勿論今度は、リアルでだが。


            * The End *




 

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