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リュウノヒゲの茂みの上に。
朝露にびっしょり濡れた、奇妙なものを発見。
透明な、きらきら光る、蝉の抜け殻。
およそ、信じがたいものを、拾ってしまった。
宝石で出来ているのか?
・・・・どうも、そうらしい。。。
絶句。
sigh。。。。
重さが違う。
固さも違う。
なのに。
試しに鼻を寄せてみる。
蝉の抜け殻の匂いだ。
如何すればいいのだろうか?
我が家より続く、森の小道をとっとと歩く。
そう言えば、今は七月だ。始まったばかり。
この森を、虫取りの小学生が駆け回るには、未だ早過ぎる。
途中、友人に会う。僕の家に来る途中だったらしい。
しめた。
彼は、超常現象に詳しい。
聞いて見よう。
新型サイクロトロンには、核融合と分子変換が出来るらしいね。
彼はにべも無く答えた。
でも、こんなに都合良く、宝石が出来るとは聞いていない。
がっかりして、掌の上の抜け殻を落とさないように歩いている。暑い。帽子を被って来て良かった。
そう言えば、掌の上の蝉も熱い。まるで、自ら、光を放っているようだ。
そんな筈は無い。慌てて、抜け殻を見る。
背中が、ぺらりと割れた。僕と友人が固唾を呑んで見守るその眼前で。
中から、雪よりもなお白い透明なまでに真っ白な、一人前のクマゼミが現れた。
抜け殻では無かった。
たった今。羽化したのだ。
翅はためかせて、彼(もしくは彼女)が、ブナの森に消えた後。
何処から現れたのだろう、蝉の大合唱が始まったのだ。
四方八方から降り注ぐ、セミ時雨を浴びながら、僕は言ったものだ。
「一体、今年の夏は、どうなっているんだ?」
「おや、君、解らなかったのかい?」
友人はそんな僕を振り返ると、こともなげに言ったのだ。
「たった今、夏は始まったのだよ。」
と。
* The End *
抜き足差し足で雪の屋外に出た坊やは、ダッシュして走り出しました。後ろも振り返らず。
はあはあ、はあはあと、白い息が、断続的に夜を切り裂きます。坊やの吐く息が。
雪の冬山を、子供と若い女性が越えて行くのは無茶です。でも、彼らはやり遂げ様としました。自分達の為に。仲間の為に。誰も文句一つ言いませんでした。
そして、未だ雪降る山を下って、麓の街に食料と薬を買出しに行くのは、もっと無茶です。
到底人間の子供には出来ません。不可能と言うものです。
そう、人間の子供なら。
雪の上に、点々と足跡が、凍て付いた足音と共に其処に、最早迷いも何も無く、真っ直ぐに残されて行きます。見た人が居るならば、驚くでしょう。
雪が直ぐに覆い隠してしまうでしょうけれど。その足跡は子供用革靴の靴底の形では、絶対に有り得ませんでした。
小さな、仔狼の足跡だったのです。
彼は、毛皮の厚い狼に変身して麓の街に向かう事を決意したのでした。
あれほどに、嫌っていたのに。自分が、狼男の血を引いた狼男である事を。
あれほど、いやがっていたのに。
冬は寒いものだけれど、寒さは感じませんでした。
夜は暗くて怖いものだけれど、怖くも有りませんでした。あの灯り。
あの灯りの元に、きっと夢に見る程に希求した御薬も、新鮮な果物も在るのです。急な下り坂を一心に下る其の容子は、もしもお母さんが見たならば、お父さんにそっくりだと言うかも知れません。
雪は彼を取り巻いて、からかうかの様に、軽やかに舞っています。
雪に感情等、在る訳が無いのですけれど。夢中で走っている内、街灯が近くなって来ました。何時の間にか、足元も平坦に硬くなり始めています。
おや、あれは何でしょう?彼は寒椿の茂みに飛び込んで、人間の姿に戻り、携えて来た衣服を素早く身に着けました。而して、元の地点に戻ります。
大きな音を立てて、アスファルトの道路を疾駆する物。救急車です。真っ赤なランプを回転させて、同じく紅いランプを眩しく輝かせたコンクリートの塀に重々しく入って行きました。
二十四時間体制を敷いた救急病院。
泣きながら駆け込んで来た小さな男の子が、もう一台の救急車を発進させたのは、その間も無くの事でした。
雪は、何も言わずに彼等の頭上を舞い、街を白い帳に包み込みます。
さて、それからどうなりましたって?
無事に連絡が取れたお父さんが、慌てふためいて、其の雪の街を訪れたのは、翌日の夜遅くの出来事でした。
お母さんを見舞った後、坊やの話をふんふんと頷きつつ頭を撫でながら、最後まで辛抱強く聞いたお父さんは、こう言いました。あ、そうそう、いつか、何だか遠い昔の事の様な気がします、夢に出て来た、知らない男の子の事も。
「お前は、どっちに行きたかったんだ?」
「どっちって・…。」
「その男の子は、どうだか知らんが、まあ、忠告してくれたんだし。お姉さんの方は、多分お前が好きだったんじゃないかな?」
だとしたら変わった愛情だと、坊やは思いました。
二人が座っている場所は、検査室の前の廊下、長く黒いソファでした。お父さんはいつもと変わらず、にこにこ笑いながら、日焼けした顔で坊やを見詰めています。
「えっと。夢に出て来た男の子はいつか会えたら、一緒に遊びたいな。」
坊やは足をぶらぶらさせました。つっかえつっかえ言いながら。
「そうか。兎のお姉さんは?」
弾かれた様に、ぶんぶんと首を振る息子を見て、お父さんは声を立てて笑いました。で、お父さんはただでさえ力がとても強いのですけれど、大きな手で息子の柔らかい髪をわしわしと引っ掴んで言いました。
「彼が、普通の人間でも、か?」
「うん。」
ますます御父さんの笑みが深くなります。
「よおし。いつか会える。絶対。此のお父さんが断言する。」
お父さんは自分とよく似た色の息子の頭を持って振り回さんばかりです。其の時、待っていた物が訪れました。検査室の扉が開きました。中から白い光が零れます。清潔な白衣の、お父さんより少し年上の御医者さんが出て来ました。銀縁眼鏡の奥の瞳が優しそうな御医者さんです。
二人は思わず立ち上がりました。御医者さんはにっこり笑いました。にっこり笑って言ったのです。
「もう、大丈夫ですよ。」
此の事件で一番不思議な出来事は、其の直ぐ後、出来しました。御医者さんの言葉を聞きながら、小さな英雄は、太陽に照らされた真昼のアイスクリームさながら、くたくたと眠り込んでしまったのです。
夢の中に今度は、彼は何を見たのでしょう?もしかしたら、やがて大きくなって、狼男じゃない友達と、それと狼男である友達と、一緒に、雪だるまやカマクラ、雪橇、ミニ=スキー。楽しく思い切り遊んでいる夢だったのかも知れません。
其の夢に、今度は、真っ赤な瞳の白い兎が出て来たかどうかは、さあ、聞いて見なければ、解りませんけれど。
* The End *
暗くなりかけた空から、白い物が舞い落ちて来たのでした。何も書いていない、白紙の手紙の様な。だからこそ、何ものかを雄弁に物語る事を心得た何かが。
「雪。」
お母さんが呟きました。
「本当だ。雪だ。」
「初雪ね。」
窓際に坊やが直ぐ駆け寄って、両手と頬を押し当てました。冷たい。見上げれば、雪の進軍は、次々に落下傘を開いて地上に軟着陸して行きます。明日の朝、人々は、此地に冬将軍が遣って来た事を大本営の発表を待つまでも無く知らされる事でしょう。
「明日、此旅館を立ち去りましょうね。」
「うん。」
坊やは頷きました。お母さんの言葉に、それ以上何も云えずに。
其の晩。鉱泉に浸かった後のぽかぽかした身体で布団にくるまって、うとうとして居た時に、坊やは夢を見ました。とっても広い、知らない原っぱが出て来るのです。綺麗な花々が咲いている原っぱです。緑の草木がゆさゆさ揺れているのです。彼は知らない男の子と遊んでいるのです。坊やは彼の名前を知っているし、彼も坊やの事を良く知っているのでした。知らない遊びを沢山二人で一緒にして遊びました。二人ともとっても、足が速いのです。駆けっくらしても負けないのです。其の子は云うのです。
『兎の後を追い掛けて行っちゃ、駄目だよ。』
『どうして?』
彼は聞き返しました。
『兎は、何処に行ってしまうか、解らないからさ。』
『解った。』
彼は大きく頷きました。其の子は、知っていて知らない子は、安心して言うのでした。
『さあ。次の遊びをしよう。先刻は林檎と蜜柑の遊びだったから。今度は。』
『今度は?』
『図形を思い出す遊びだよ。さあ、月の図形は?』
彼が答えようとした時、何処か遠くで電話のベルが鳴りました。
其の音で彼は目を覚ましました。旅館の部屋に彼は横たわっているのです。階下で誰かが話しています。
『誰だろう?』
彼は思いました。
『こんな時間に。』
眠い目をこすりこすり、起き上がって見ると、お母さんが暗い中、目の前に難しい顔をして立ち、坊やの顔を見詰めていました。微かに光る目のお母さんは言うのでした。
『荷物を纏めなさい。』
坊やは跳ね起きました。
《何か》が来たのです。凍り付く様な夜の果てから、《何か》が。
『此処の人達に、迷惑は掛けられないわ。』
心臓が、一度思い切り跳躍し、其の後、何十回と無く慌しいステップを踏みました。坊やはその《何か》が‘何’であるかは知りません。でも、噂に聞いた事の有る《何か》は、恐ろしい存在(もの)です。捕まってはなりません。夜には閉じてしまう白粉花が夜の訪れからは逃れられないにしても、彼等親子は、狼女の母親と狼男の成人前の存在である少年は、それから逃げおおせなくてはならない、それ程に恐ろしい存在なのです。
お母さんの話だと、《何か》或いは《誰か》は、ほぼ彼等の居所を嗅ぎ当て此の旅館に向かっているらしい、との事です。
『長距離バスの発車時刻に今なら間に合うわ。』
てきぱきと用意を整えながら、お母さんが言いました。坊やは黙って庭先の沈丁花や八手を眺めました。親子でキャッチ=ボールをしたのは、つい昨日の事です。
寝ぼけ眼の帳場の人達に、何を言ったものか説明したものか解らないまま別れの挨拶を言って精算し、名残を惜しむ言葉も考え付かない程、此処の生活が気に入っていたのだと気が付いたのは、旅館を出た後でした。
空は晴れていました。いつ雪は止んだものか、透明な空気が、張り詰めている二人の心を、否応無しに凍て付かせます。丸く青い月が大空から見ているような気さえしました。こんな時に限って眠くなりそうです。うっすらと積った雪景色、月の光に照らし出された薄蒼白い、透明な水の如き雪を、今は不思議に思っている暇も無ければ、観賞している余裕すら有りません。
ばたばたとチケットを買って、(しかし御客様、長距離バスは普通予約を取るものなのですが、解りました、御急ぎの御様子ですし・・・)空いた席に二人は急ぎ足で乗り込みました。
内部はふわりと暖かくて、静かです。各座席をライトが照らし出しています。長距離バスは夜遅い発車なのです。二人が乗り込んだ時には、既に後部座席に居眠りして居る会社員まで居ました。
発車と同時に二人はほっと息を付きました。景色がぐんぐんと夜の中で変わって行きます。見ていて気持ちの良い程です。なめらかに車線変更するバスの中で、お母さんは坊やに『お腹空かない?寒くない?』と訊ねました。親子二人が身を寄せ合った旅が始まったのです。頼るものとて無い、旅が。
『高い御山を越えて行くのよ。坊や。』
チョコレートを坊やの為に荷物の中から出しながら、お母さんは言いました。また、こうも言いました。
『運転手さんに任せておけば、後は目的地まで直ぐよ。』
ああ。けれど何と言う事でしょう。何の気無しに外を見た坊やはぞっとしました。思わず鳥肌が立った程です。月が。中天高く上ったまあるい青い月が、バスの後を付いて来るのです。何処までも。板チョコレートを齧るのも忘れて、坊やは窓の外に見入りました。生物の様に。決して彼等親子から目を離さぬかの様に。月が付いて来るのです。
溜息を付いた坊やは、おかしな事に気が付きました。窓ガラスに人間の顔が映っているのです。それだけならおかしな事は何も有りません。でも、あの男の人は、あんな良い身なりをして、だらしなく一番後ろの席でふんぞり返るようにして、ぐっすり眠っていたのではなかったでしょうか?坊やとお母さんがバスに乗った時は?それなのに今、じっと坊やの背後から、坊やを見ているのです。二つの黒目がちの眼はぱっちりと確かに見開かれています。空いている座席は未だ確かに幾つかぱらぱらと見られるものの、いつ、彼は座席を前部方向へ移動して来たのでしょう?
何故、彼はあんなにも一生懸命になって、二人を交互に見遣っているのでしょうか?
思わず知らず、坊やは傍らのお母さんの腕をぎゅっと?んでいました。すると、其の手を押し戻すものが有ります。当然、この柔らかな感触はお母さんのものです。不意にすっくりとお母さんが立ち上がりました。坊やに此処に居る様に眼まぜをしてから、通路をゆっくりと前の方へと進んで行きます。運転席まで行くと其処で立ち止まり、何やら運転手さんに小声で話し掛けています。
バスの乗客の殆どは眠っています。彼等を起こさない様に声をひそめて二人は話をしています。程も無く、お母さんが戻って来ました。そして、坊やににっこりと微笑み掛けました。
間も無く、静まり返って寝息だけが響く長距離バスは、大きな長いトンネルに飲み込まれました。中はオレンジの光で満ちています。間も無く、
”皆様、本日は当東山バスを御利用下さいまして有難う御座いました。”
トンネルの中を走るバスの中で、鈴を振る様な美しい女声がアナウンスをしています。アナウンスは続けて、
”此バスは終点連歌倉迄参ります。次は、明畠・・・・。”
緊張しながら坊やが窓ガラスを見遣ると、あの会社員風の男はトンネルの中では逃げられぬと思ったか、再び転寝の様子です。憎たらしい様な落ち着き振りです。
此の会社員は、あの噂に聞く《何か》なのでしょうか?それとも、《何か》からお金を貰って頼まれただけなのでしょうか?二人を見張っていてくれ、と。想像の雨の雫は幾多にも波紋を広げて行きます。間も無く、バスがトンネルを抜けます。一気に視界が広くなりました。と、ゆっくりとバスのディーゼル=エンジンの回転音が下がって行くのが解りました。坊やは目をぱちくりさせました。思わず喉が鳴り、此音があの会社員に聞こえなかったかと、どきどきしたものです。何処やらの砂利や小石がごろごろするぽっかり開いた空地へとバスは入って行くようです。やがて、バスが停車しました。
低く囁き続けるエンジン音の中で、運転手がぼそりと呟いたのが聞こえました。
『はい、篠之芽駅に着きました。』
瞬間、流石と言うべきか牝狼だけの持つ素早さで、お母さんは坊やを重いとも感じぬ容子で抱え上げると、脱兎の勢いで入り口に向かい、ステップを駆け下りました。料金は乗った駅で精算してあります。冬山から吹き降ろす冷たい風が、二人の身体へうなりを上げて体当たりをするのでした。二人は身を竦め、襟元を掻き合わせました。其の背後でエンジン音が再び回転数を上げます。思わず坊やは振り返りました。
呆気に取られている坊やの目の前で、再びバスが重たそうに発進しました。あの会社員風の男を乗せたまま。さようならの言葉も、またどうぞの挨拶も無く。
『丁度良い。待合室に温かい飲み物が有るわ。』
両手を揉みながら、お母さんが言いました。
バスの中でアナウンスしたのはお母さんでした。明畠駅と言ったのは、篠之芽駅の次の駅です。子供相手の悪ふざけと見せ掛けて、トンネルの中で予め吹き込まれたテープの口真似をしたのは、追って来る相手が、此の辺りの地理に詳しいかどうか、試すためです。一か八かの賭けとも言えるかも知れませんが、どうにか時間差攻撃と言うよりか、時間差逃亡術とでも言うべき物は、タッチの差で成功した模様です。
熱い缶コーヒーを飲みながら、
『これからどうするの?』
木で出来た長いベンチの上で坊やはお母さんに聞きました。お母さんは黙ってコーヒーの湯気を吹きます。坊やにも解っていました。窓の外に聳え立つ鬱蒼と森林が生い茂る険しい山。長距離バスから降りなければ、難無く越えられた筈の山を、これから親子は徒歩で行かなければなりません。あの巨大な中身を伴った影を、これから越えて行かねばならないのです。完全にまいたとは思えません。じきに追って来るでしょう。…親子は何一つ悪いことをした訳では無いと言うのに。お母さんから先んじて立ち上がりました。坊やがそれに続きます。
山の上は吹雪いていました。一面の銀世界。
親子はしっかり身を寄せ合って歩いて行きます。お互いの体温が感じられる此の場所で二人は一緒でした。耳を聾する轟音の中、坊やはそれでも嬉しかったのです。いつもお母さんが居てくれる。振り返れば、すぐ其処に居てくれる。旅の最初からいつも傍に居ました。片時たりとも離れはしませんでした。でも、これから彼等はどうするのでしょう。頼る者は遥か彼方に居ます。此の世界には彼等二人だけ、二人だけしか居ないのでした。
ふと、厳しい風が沙汰やみになったような気がして、坊やが顔を上げました。視界の隅を、何かが動いています。最初、雪明りの地面の上を、鳥の羽毛か雪玉が風に吹き寄せられて転がって行くのかと思いました。ころころ、ふわふわと。
兎です。鴇色を中心に持つ長い耳とふかふかの毛皮は、どちらも透明感を持つ程の白い色です。ウレタンを詰めた縫いぐるみが命を得て、活発に動き回っている。そうすると、こんなにも可愛らしく見えるものでしょうか?小さな白い兎が雪に塗れながら駆けて行くのです。赤い目が雪の地面に仄温かに映ります。何処へ行くのでしょう?
坊やはお母さんの手を握りながら、じっと見ていました。あの軽い身体を抱き上げて見たならば、温かいかも知れないぞと思いました。ひょいっとこう…簡単そうです。もう少しで手が届きそうです。雪の上に点々と足跡が印されて行きます。少しずつ一寸ずつ雪を巻き上げて進んで行きます。其の姿が雪に紛れて見えなくなると思った時、彼はすいと、握っていた温かい懸命な手を、離してしまったのです。
離してしまったのです。決して離してはいけなかったのに。
坊やは兎を追い掛けました。吹雪の中で、何処からか射す淡い光線の方向に、兎も跳ねて飛んで行きます。何故か、寒くありませんでした。ほんの少しばかりでも。此の白い広野に、兎と自分だけが居るような、一人と一匹で、永遠に雪野を駆けて行くかのような、そんな幻想めいた想いが、また降る雪の一片一片となって、少年と兎の周囲に身体に纏わり続け、渦巻き続けるのです。どの位走ったでしょうか?
ぽっかりと。本当に突然。不意に少年の視界が開けて、背中を押された様に、彼は広い場所に居ました。風が随分と優しいのです。そよ風程度にしか吹いています。雪が自分の眼前を塞がない事実に、彼は気付きました。其処等に満ちる淡い熱の無い光に、自ずと押し上げられたのでしょうか。見上げる夜空の高い所に、雪が、うねりのたくりながら唐草模様を描いて吹雪いているのです。
白い指が、兎を拾い上げました。いとも軽々と逃げられもせずに引き寄せます。円やかな優しい胸に、抱き上げられた兎は、すっかり安らいで瞳を閉じます。耳がぴくぴくと蠢きながら彼女の方へと傾ぐのです。左右揃えて。
坊やの方は、眠るどころではありません。呆然と其処に佇む髪の長い女性を見詰めています。つと。朱の唇寛げて。彼女が微笑みました。ふらふらと其方へ坊やが進みます。彼女に一声、何かを話し掛け様とした時。二本の力強い腕が、彼の身体を鷲?みにして引き戻しました。彼はその腕の匂いと体温を、生まれた時から良く知っていました。
『坊や!』
お母さんは叫びました。子供の身体が石になったかの如く、固まった儘動きません。此処まで追い掛けて来たものの、彼女は途方に暮れて、身体は冷え切っていました。
『ああ、神様。坊や、怪我は無い?』
抱き締めて、頬ずりしようと、尚も何処かへか進もうとする息子の腕を引いた拍子に、彼女は息を呑みました。石像の様です。それでも負けずに一二歩進んだ拍子に、粉雪に足を取られ、雪の中へと倒れ伏して行くのでした。冷たい、冷たい雪が骨の中まで沁みて行く感覚に、彼女は一瞬、気が遠くなります。
それでも、子供の手は離さなかったのです。
坊やは、はっと身じろぎしました。赤インクを散らした水面に小石を投げ込んだが如くに、目の前がぱっと赤く染まります。その紅い血の色は、兎の瞳より赤かったのです。
多分、お母さんと坊やの血の色だったのですから。
坊やは二三度首を振りました。身体の深奥からしんしんと募ってくる寒さに、足踏みをして、白い息を思い切り吸って、吐きました。僕は此処で何をして居るのだろう?お母さんと一緒に山越えをするのではなかったのかしら?それなのに何故、こんな場所にいるのだろう?お父さんや他の皆は、どうしているのだろう?
…お母さんは、そうだ、お母さんは、何処なんだ?
あえかな響きに、坊やは身動きしました。お母さんの声です。懐かしいお母さんの。
『ぼ・う・や。』
間違い無く背後からの声に、振り向いた彼の瞳。降る雪に打たれるセピアのトレンチ・コートの背中に広がる長い髪は、輝かしいマロン・ブラウン。もっと小さな頃から其の髪に頬ずりするのが、彼はどんなに好きだったことでしょう。
坊やは叫びました。
『お母さん!』
何時の間にかあの女も消え、兎も淡い光と共に掻き消え、風が定規で引いたが如く、白く冷たい幾多の描線の向こうに、紅い瓦屋根が見えます。木の壁が見えます。目指す山の中腹。山越えをする旅人の為の休み小屋はもうすぐなのです。相変わらず吹雪は止んでいません。
山小屋の近くで息子を見失い、彼女は此処まで追って来たのです。どんなにか心配だった事でしょう?どうした事か呼べども叫べども強く硬質な風がその声を覆い隠して、吹き散らされてしまう現象が、彼女の心配を更に煽りました。
どうにかお互いを引き摺る様にして、小屋に入って十分な食料と水と薪を見出したものの、お母さんはその時から高熱を発してしまいました。
あれから三日。窓の外の雪と風は、少し穏やかになって来たのではないでしょうか?
「僕が悪いんだ。」
坊やは繰り返しました。自分の膝を見詰めています。
「坊やのせいじゃないわ。」
喘ぎ喘ぎしながらお母さんが言いました。この会話も何度繰り返された事でしょうか?
お母さんの額には、朝露に濡れた葡萄を思わせて、びっしりと汗が浮かんでいます。病み付いた瞳には、何が映っているのでしょうか?吹雪が止んだ後の青い空?それとも?
せめて何か、栄養の付く物を。せめて、御薬を。坊やの頭の中は、気の狂わんばかりでした。持って来た御薬は直ぐに使い果たしてしまい、もう食料も残り僅かです。
自分さえ。坊やは思いました。自分さえ、我儘を言わなければ、今頃、目的地に着いている筈だった。そんな積もりでは無かったにしろ、此れは自分の責任だ。
彼の目にも、お母さんが痩せ細り始めているのが、良く見えているのです。大好きな、料理が上手で、御洋服や浴衣を仕立てるのが好きで、何時も記念日にはケーキやお菓子を焼いてくれるお母さんが。お父さんの事を誰よりも良く理解しているお母さんが。
では、どうすれば良い?どうすれば、お母さんを助けて上げる事が出来る。唯それだけで良い。他には何も望まないから。痛い程に彼は願いました。
でも、勿論返事は有りません。彼の願う言葉を聞き届ける、心の声を聞く福耳の持ち主が居ないから。いいえ、そればかりか、此処には他に誰も居ないのです。誰も。誰一人。大人も子供も。先生も小児科の御医者さんも。
「坊や。御覧なさい。雪が小止みになって来たわ。」
その声に我に帰って振り返った時、彼の瞳にガラス窓の外、点々とした遠い灯りが映じたのです。温かそうな、くっきりとした強い光。色とりどりの地上の星々。ほんのささやかな、でも、美しい、光の群。生きているかの様な。無言では無く、生きていると、言葉で訴えている様な。
それらを見た時、坊やの中にも何かが灯された様です。たった一つの、でも、確実に熱を持った明るいものが。
窓の外を食い入る様に眺めながら、坊やは聞きました。
「あれ、何あに?」
「街灯よ。此処は山の中腹だから、ずっと下の方向に見えるの。雪が、ぱらぱらとなって来たみたい。本当に明日の朝には、此処を立てそうね。」
確かに一時の降り方に比べれば、微風と言ってもおかしくない位に風が凪いで来た模様です。でも、雪は相変わらずです。
「私は大丈夫ですからね、坊や。ゆっくり休むのよ。」
その鈴を鳴らしたと言う形容にぴったりな声がだんだん小さくなって行き、やがて、今は紫がかった、さくらんぼ色の唇から、少し苦しげな寝息が漏れ出します。坊やはじっとその白い顔を見詰めていました。やっぱり汗を掻いています。幾ら拭って上げても汗を掻くのです。
再び窓の外に視線を転じて、坊やは立ち上がりました。
やがて、閂を外し、扉を寝ている人を起こさない様にとそっと開けて、坊やは外に忍び足で出て行きました。それに興味を持ったか冬の星々が、厚い雲を払い除けて、三々五々と集まりつつ、光り出しているのでした。
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