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何と言うことは無い一日。何と言うことは無い日常。
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「あ、すみません。」

自宅の玄関を出た時、明るい月が夜空にぽっかり浮かんでいるのを見て、何やら救われたような気になったものだ。

考えて見れば、何故、夜の夜中に散歩に出ようなどと思い付いたのだろう。

自分の発想ながら、理解に苦しむ。

思えば、今書いている小説の、第二章に入ってからの展開こそが、問題だった。

主人公が、最初自分の思っていた通りに動かない。
勝手な台詞を言う。
勝手にヒロインをお茶に誘う。

ほとほと、困りあぐねていた。

こんな事ではいけない、と思う。自分は、作中人物に対して、もっと、厳しくなければならない。

しかし、事態は、自分の考えていもしなかった方向にと、どんどん向かい始めているのだ。

月を見上げて、溜息を付いた。銀に輝く円い月。
月は僕の道標だ。
先程から、僕の歩調に合わせるかのように、殆ど、同じ場所に在る。

・・・・・あれ?

そろそろ色付き始めた銀杏並木の真ん中で、僕はふと立ち止まって、首を捻った。

あれ?

そういうものなのだっけか?何がって、ほら、月が。
月が。

胸にきざした疑問を、言葉にして見せんと、今一度、月を見上げたその時だ。

「あの、すいません。」

通りの向こうから、声が掛かる。一見して真面目な会社員風の男。未だ、若い。三十歳を幾つも過ぎていないだろう。


「はい、何でしょうか?」

警戒より先に、礼儀正しく振舞わなくてはいけない、と言う意識に駆られるとは、我ながら、冷静さは失っていないようだ。
自分の行動の自画自賛かね。これは?

男は、七三分けの顔で微笑みながら、こう言った。

「その、申し上げにくいんですが、」
「何でしょうか?」

街灯に浮かんだ相手の顔に、こんな季節のしかも夜だと言うのに、汗が浮かんでいるのを見て、気の毒になった。お困りのようだ。

「この辺りに、鍵が落ちていなかったでしょうか?」
「鍵?」
『鍵』と発音する時の相手の顔が、ちょっと表現のし難いほどに歪むのを見て、ますます気の毒になる。

散歩中と言う事は、暇なのだし。
「鍵ですか?」

「はい。古風な、最近ではあまり見かけないような大きな鍵なのですが。」


「大きな鍵ねえ・・・・。」

僕は、屈み込んで、探して見た。銀杏の下の草の茂みの中にも入り込んで見る。

「ああ、済みません。急ぐ余り、この辺りで落としたと言う事しか解りませんでしたので。」
「いや、お困りでしょう?」

家の鍵でも、車の鍵でも、勿論金庫の鍵でも、無ければ困る。スペアが有れば良い、と言う問題では無いだろう。

並木道の上、銀杏の木が影を落とす辺り。見当たらない。

溜息を付きながら、頭を起こし、背を伸ばしてみた時だ。

きらり。三本先の銀杏の幹。真ん中辺りに光るものが有る。
慌てて、寄って行くと、大きな枝の下、細い枝に、これまた糸の様に細い鎖で、ぶら下がりながら、夜風に揺れている。

「有った。」

銀色の、古風な造りの鍵。シックな装飾が施されているのがまた、時代を感じさせる。

「あ、有りました?!有りましたか。良かった。」

会社員風の男が、泣きながら、駆け寄って来た。いや、短い距離なのだが、本当に、脱兎の如くに駆け寄って来た。

「間違い有りませんか?」

彼に手渡しながら、僕は、まず有り得ないと思いつつ、訊いて見る。

「間違い有りません。良かった。。。良かった。。。。」

鍵を抱き締める様にして、胸に引き寄せている様を見て、僕は初めて、良い事をしたのだな、と思った。

「所で、聞いて宜しいでしょうか?」
「どうぞ。」
落ち着いた所で、僕は彼に切り出した。
「それは、何の鍵なのです?」

彼は、眼を見張った。余程、僕の質問が意外だったのだろうか?
しかし、直ぐにその戸惑った表情の代わりにふわり、と微笑んで見せ、

「ああ、そうでしょうね。不思議でしょうね。いいや。折角、見つけて下さったんですし、教えて差し上げましょう。お礼と言ってもそれ位ですが。」


細い鎖を軽く持って、月光に翳すように差し上げながら、どぎまぎしている僕に言った。

「で?」
僕は、促した。好奇心で一杯の声だと自分でも思った。

「これはね、“月の鍵”なのですよ。」

「月の、鍵?」

鸚鵡返しに僕は言った。

「それは、何です?」

「あの通りですから、今、月が。」

「はい?」

一緒になって月を見上げた時、流石に僕は異変に気付いた。

月が、何と、動いていない。少なくとも、この小一時間ほどで、ほとんどと言って良いほど、高度を変えていない。

異常だ。

光の輝きは、いつもと変わらないのに。全く。

「動いていないでしょう?」

直ぐ傍らで、声がした。僕は一つ唾を飲み込んで、頷いた。

「動いていない。・・・“月の鍵”だって?」

「はい。もう直ぐ、いや、直ぐに、正常な状態に戻りますから。それにしても、有難う御座います。お陰で、助かりました。あなたのお陰で。」

声が遠ざかる。有りか無しかの足音と共に、やがて、両方が消え去るまで、僕は、其処から動けなかった。
夜空の月の様に。

しかし、却ってそれが良かったのかも知れない。

程なくして。

濃紺の空に、ぎぎぎ、ぎりぎり、きーん、と言う音が、真っ直ぐ、地平から地平へと走る。

それと同時に、月の表面の銀色の光が、三割方、増したように思える。

次に、これまでの停滞した分を取り返す積りなのか、それと分かるほどに、月は、夜空を、ゆったり動いて、そして、また、ある一点で、停まった。

いや、実際には止まったのでは無い、動きがゆっくりになっただけなのだ。

月の軌道が変わらない事を、これほどに、喜びたくなったのは、生まれて初めてだった。

長い、長い溜息を付いた後、自分の影を、月光によって落とされた影を、蹴飛ばすようにして。

僕は、歩き出した。

家路へ。

秋風は、夜の更けるにつれて、冷たくなっていくけれど、僕は、平気だった。

胸の中心が温かい、月明かりがそうであるように。

何だか、今度は、自分の主人公と上手くやって行けそうな気がした。

とにかく、“彼”の言い分を聞く事から、始めよう。

そう、思った。


良い、月夜だった。


              * The End *

 

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