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新しい花が、広い庭の、入り口近くの薔薇の繁みに咲こうとしていた、晩秋の午後。
街一番の病院に、一人の見舞い客が訪れた。
話し声と行き交う人々(特に看護婦)でざわざわしている廊下をくぐり抜け、客はコートの裾をひらめかせ、とある病室のドアを潜った。
途中、2階の窓から、階下の庭を見下ろす、入院患者の側を通り抜ける時も、そちらをちらとも見る事も無ければ、此処に至るまで、誰にも案内を乞うことも無く。
晴れた日の病室。花瓶の百合と丁度、待っていた、若い背の高い医師が、彼を迎え入れた。
客は、開口一番。
「病人の具合はどうです?」
「お喜び下さい。」
医師は、このような男には珍しい、満面の笑顔で告げた。
「年内には退院の手続きが取れますよ」
「何と、そんなに。」
見舞い客は、流石に喜びを隠し切れず、しかし、明らかに驚いた様子で、改めてまじまじとベッドの上の病人を眺め下ろした。
「話には聞いていましたが、まさか、其処までとは。いや、先生、お見事です。」
「いやいや、とんでもない。」
そこで、初めて、医師は溜息を付いた。
「お分かりでしょう?“あれ”のお陰ですよ。どちらかと言えば。」
肩を竦める動作が、嫌味にならないのは、人柄だろう。
客も、そこでやっと、“あれ”に耳を澄ませる動作を見せた。
“あれ”。
それは、今も、何処からか、病院の内外に響いている、歌声だった。
高く、低く、柔らかく、優しく。
今、客と医師のいるこの病室の中一杯に染み渡るように、聞こえ続ける。
何語とも知れぬ言葉の、語りかけるような、宥めるような、訴えかけてくるような。
音域の広さに、ある人は男性であろうと言い、声量の豊かさから、別の入院患者は、絶対女性だと言い張る。
朝から晩まで、正確に言えば、起床時間から就寝時間まで彼或いは彼女は歌い続けて来た。
この歌声が、始まった時より、ずっと。
不思議なことに、いや、ミュージック・セラピーの専門家なら、喜んだろう。
入院患者の、早期回復が報告され始めていた。そればかりか、外来患者のカルテに、通院必要なしの事項を書き込む枚数すら増えて来たのだった。
この病室の患者も例外では無かった。
極端な昏睡状態が続くのは、発病の時期から変わらぬながら、今はすっかり、呼吸が楽そうになっている。
看護婦を夜、呼ぶ回数も減った。
医師達になら、徹底出来る、緘口令も、看護婦相手では、どうも勝手が違うと言う、病院の“常識”も、客は、見舞いに足繁く通うようになって、初めて知った。
確かな事は、唯一つだ。
客は、しげしげ、今日は顔色がしみじみ良くなったと見える、少し体重も回復した患者の顔を見守った。
“妖精の歌”が始まったのは、この患者が入院した時期と、丁度一致している。
「変わった事が有ったら、ご連絡致しますよ。」
不意に、医師が、口を開いた。
「あなたの、あー、職場まででも。」
「恐れ入ります。」
客は頭を下げた。
「正直、彼がいませんと、二進も三進も、いや、つまり、後は彼の回復を待つのみなので。」
鼻をかきかき、
「事件の重要な証人に、是非、健康を取り戻して頂く事が、市民の安全を守る上で、大変に重要な。」
「分かりますとも。」
医師は、客の、慣れぬ長広舌を遮った。
その時。
病人が、ぽっかりと、眼を開いた。
客を見ても、驚く事無く、微笑みかける。
かえって客の方が、所在を無くして、口を開こうとする所を、今度は、患者の声が遮った。
歌は、聞こえ続けている。或る医師はゲール語であろうと言い、別な警備員は、アラム語に違いないという歌が。
最早、BGMのように、この病院のありとあらゆる場所に。歌が、敷衍し、氾濫している。
「・・・夢を、見ていたんだ。」
患者が、言った。
「夢?」
優しく、客が応じた。
「小さな頃の夢だ。釣りをしていたら、川の中に仕掛けた網の中に、良いか、笑うなよ。緑色の折れた帽子を被った、翅の生えた子供が掛かってしまったんだよ。」
「ほう。レプラコーンかな?可愛い子供だったろう?」
医師が、言った。
「離して上げたんだが、喜んでいたよ。いや、違うか。別れる前に、二人で、魚を素手で掴む競争をしたんだ。」
「へえ。そうなのか。」
「楽しかったよ。」
にっこりと、誰にでも分かるほど、口の端を上げて、患者は笑った。
其処へ、医師が、毛布を首の上まで引き上げてやった。
「さあ。君は眠るんだ。眠りすぎなんて、言わせないぞ。」
「はい。先生。」
「お休み。また、来ますよ。」
患者は、目を閉じる。程なく、寝息が、すやすやと聞こえた。二人は同時に、安堵の溜息を付いた。
窓の外で、銀杏の葉っぱが、はらはらと散った。それを惜しむかのように、歌声が高く切なくなる。
「彼が退院したら。」
おや、と、客は思った。先生、独り言か。
「この歌も、聞こえなくなるんだと思うと、少し、寂しいかもな。」
ただ、絶対に、学会に報告出来ない症例だが。
煙草を吸いたくなった客が、休憩室に誘うまで、医師は、窓の外を眺めながら、“妖精の歌”に、耳を傾けているかのようだった。
そして。
たしかに、医師の言う通りになったのだ。
* The End *
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