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自分の家に代々伝わる、ささやかな言い伝えを、最初に誰から聞いたものか、母か、祖母か、最早彼にとっては判然としなかった。
灯りをつけましょ、ぼんぼりに・・・・。
幼い娘が、歌いながら、雛壇飾りを手伝うのを見るにつけ、一家三人これまで遣って来た事の幸福が身に沁みる。
お花をあげましょ、桃の花・・・・。
ハルシオンの如く翼を広げて、自分は家族を守って来れただろうか?今は、それより、気になることが一件。
彼女が、自分の家に伝わるその言い伝えを、自分で耳にするのは、さて、いつで、それも、誰の口伝えなのだろうか?
それとも。
くすぐったい思いが若干、胸を過ぎる。それもまた、今は一家の家長であり(古い考え方だが)、父親である、自分の仕事なのか。
書斎に戻って、昨日の分の書類を決裁分も含めて、日付順にファイリングするだけで、結構時間がかかった。途中、通り雨でも降ったのか、ぱらぱらと音がするのを覚え、日差しの差し込む、庭先をのぞく事もしてみた。
夢中でいる内、小腹の空くのを覚え、さて、小休止とばかりに、立ち上がった、丁度その時。
「まりちゃん。これ、どうしたの?」
少し開けた窓から、母親が娘を咎める様な声がした。
まさか、男雛か女雛、あるいは三人官女に何か、と、おっとり刀で書斎を出ると、庭に面した廊下の右手、雛壇飾りを飾った座敷の中で、母子二人の会話が聞こえる。
もっとも、今は母親の声が、一方的に高い。
「茉莉花ちゃん。ママはね、これ、どこから、持って来たのって、聞いているのよ。・・・えええ?!」
「どうした、おまえ?!凄い大声を出して。びっくりするだろう?」
「あ、あなた、聞いてよ。」
エプロン姿の妻が振り向いて、言った。その側では所在無さそうに、しかし、とても大事そうに、和服姿の娘が、雛あられの入った三方を、捧げ持っている。
「だから、どうしたんだ?!」
古いと云うより、最早この家の誰よりも、時の経過を経験している、雛壇に、とりあえず、何の異常も無い事を確かめて後、彼は聞いた。
「雛あられなの。雛あられ。」
「雛あられ?・・・茉莉花の持っている?これがどうしたんだ?!」
「空から降って来たの。」
ふいっと、細い声が割って入ったので、そちらを見遣る。五つになる娘が真剣な顔をして、立っていた。
「雛あられが?」
「うん。」
茉莉花は頷いた。慌てて母親の顔を見遣る。
「今年の雛あられ、湿気対策に、まだ、封を切っていないのよ。なのに、茉莉花がいい匂いのするのを持っているから、何だろうと思って見たら。」
「雨みたいだったの。節分の豆みたく降って来たから。」
「集めたのかい?!」
座敷の中、空中に、いきなり、現れ、緋毛氈に降り注ぐ、雛あられを想像した。幼い娘が、驚いて、それを、じっくり眺める様子も思い浮かべた。・・・・だが。
「成る程ね。」
意外な事に、たっぷり十秒ほどの沈黙の後に、自分の唇から出た言葉がそれだった。
未だ、自分の居場所も無いように心細そうに立っている娘を抱き上げて、庭の側に連れて行った。
「それはね。御先祖様の分かも知れないな。」
「ごせんぞさま?!」
「そうだよ。ごせんぞさま。お雛様のお祭に、自分も混ぜて欲しくて、いらしたのかも知れない。」
妻も、彼の傍らで、先程の驚きは自ら納めた様子で、云った。
「我が家にはね、茉莉花。お雛様の日に、ご先祖様が、女の子の姿形をして、やって来るって、言い伝えが有るの。」
「本当?!」
「でもね。一つ、憶えておいて欲しいのは、お客様が沢山来ると、やって来るらしいって事なんだ。・・・だから、招いた方には、誰がご先祖様だか解らない。確かに、招待した人は全員居るのに、知らない顔は無いのに、必ずや、一人だけ、しかも、今、そこで甘酒を飲んでいる小さな女の子達の中に一人だけ、其処にいる筈の無い人が居るんだって。。。。。茉莉花にはまだ、難しいか。」
傍らでくすりと、母親が笑った。見ると、いつの間にか、ふっさりとした睫毛を落として、娘が彼の膝に身を寄せて眠り込んでいる。彼は、空を見上げた。
少し肌寒いながら、ふわふわした、雛あられのような雲の群れ。良い天気だった。
親子三人、三月の陽射しに照らされながら。縁側に座って、早い春の訪れを眺めている。
辛夷の堅い芽が風に揺れて、その影が、女雛の頬に映る、そんな午後の出来事であった。
* The End *
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