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何と言うことは無い一日。何と言うことは無い日常。
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 昔々。
 それは遠い昔。或る大きな街に、一人の少女が居りました。薔薇色の頬と柔らかな手足
を持った、とても愛らしい少女でした。
 少女の長い髪、巻き毛は栗色で、それはもう、日差しに映え青空に映え、何よりも愛し
く美しく、今芽吹いた色した若緑の瞳ごと、少女の両親は、少女をまたとない宝物として
愛し育てていたのです。
 街の真ん中を一本の大きな、水量豊かな河が流れ、河の上に優美なベルト・ハイウェイ
がゆったりと様々な様式の自走車を中央管制塔の指示通り、あくまでも静かに、騒音を排
除しつつ誘導して流して行きます。その姿は銀鱗煌めかせた魚群のよう。頭上をこれも静
かなV/STOLが、住民達を驚かせぬよう、閃く様に通り過ぎて行くのでした。
 少女とその両親の住む街は、(この時代にはあまり珍しい風景では無かったのですけれ
ど)周辺を高い人工大理石で造られた城壁に囲まれて守られ、パスワードによるコンピュ
ータ制御のゲートを潜って入って来る物や人々が、水深十メートル、向こう岸までは二十
メートル程の幅広い運河を、漕ぎ脚の速いホバー・クラフトで運ばれて行くのでした。
 其処で彼女はすくすくと育ちました。街の住人達は皆、自分達を養い育てたこの街を愛
し、公園にこの街を建設した、最早故人となった人々の銅像を建て、その足元で遊ぶ鳩や
子供達を見て、眼を細めるのです。季節毎の緑や花。ささやかな、だからこそ心和む祭の
いくつか。ストロベリーのパイ。焼いたバナナの匂い。
 生まれた時に、誰が首相だったか或いは市長だったか覚えていない(?)人が居ても、
生まれて初めてパレードのゆったり軽やかに歩む、賑やかな花車に乗せて貰った時の自分
に差し出された手の匂いを、紙吹雪が舞い飛ぶ様を、其の時食べていた物の味を、屋台で
売るクレープの焦げる匂いと相俟って、ハンバーガーであれドーナツであれ、どうして誰
が、忘れるものでしょうか?
彼女はこの街の言葉で話し、この街の言葉で歌うのでした。この街を讃える歌を。きれい
な水や緑や花や小鳥や小動物。それらが皆、当たり前のように在る、この街の美しさのほ
め歌を。
 少女と両親が住む家は、街を大木に例えると根元に生えた温かな色の茸のようでした。
お母さんは料理が好きで家の中でくるくると良く働き、クレソンやパセリやミニトマトと
言った家庭菜園の世話も少女と一緒に、汗を流して水
遣り収穫と面倒を見て、自動機械任せにしません。お母さんは言いました。『だって、娘が
生まれた時に戴いた自動皿洗い機が、未だ壊れていないのですもの。』
 お父さんは少女と遊ぶのが好きで、庭先に大工仕事でブランコを作ってくれました。お
父さんが、全部一人で材木を切る処から始めて、完成させたのです。
 昔、ある詩人が言ったものです。“薔薇の無い庭は、愛の無い家庭と同じ”と。テラスに
も、垣根にも薔薇が絡み付いた家の庭は、家族三人の自慢です。花の季節、道行く人々が、
時には少女より少々年上の少年までが時折そうっと覗き込んで行き、顔見知りの人は、誰
かが庭先に居るのを確かめると、挨拶すらして行くのですから。
 季節毎にイベントが、週末毎に趣味の集まりが有ります。色々な人が居ます。
 薔薇の品評会の前日、少女のお父さんは言うのです。『余り期待しない方が良いよ。我が
家の‘コンフィダンス’は一寸、そう、甘やかし過ぎたよ。勿論、グロリア程じゃ無いけ
れど。』グロリアは少女の名前。‘コンフィダンス’は大事に育てて来た薔薇の苗の品種名
です。
 市街で一番大きくて由緒有るダンスホールのダンス・パーティは勿論飛び入り自由。広
い川床の上では飛行愛好家クラブのアクロバット飛行。熱気球も青い空と白い雲を背景に
色取り取り。緑織り成す公園での野外オーケストラ。飛沫を物ともせず運河のヨットレー
ス。街の目抜き通りを正に独占するマラソン大会。大作も荘厳な雰囲気のステンドグラス
の展覧会。ハロウィンの夜には仮装パーティ。星空に踊る何組ものピーター・パン達ウェ
ンディ達。林檎酒が好きか、それとも杏の御酒が好きか、グラスに注ぐかマグカップに満
たすか、そんな事が何だと言うのでしょう?
 街の人々は皆、踊り明かさなくてはならないのです!一晩と言う時間を、砂男に喰われ
ない様に。
 老若男女誰にでもやがて訪れる夜を彼等は恐れました。砂男の夜。……地平線に太陽が
完全に沈む前に。水平線が段々と明るみを増して行く朝の光に追い付かれる前に。今、こ
の時を楽しまなくてはならないのです。
 <星辰耀く夜光の杯>。誰彼問わず、この街をそんな渾名で呼びました。美玉の杯から己
が飲むのが清水であろうが美酒であろうが、委細構わず飲み干さんとする手合いが、よも
や存在しようとは思ってもみない陽気さで。
 其の年。少女グロリアが十歳になった年。街は現職市長も任期十周年目を迎え、記念式
典に湧き立っていました。
 少女の気持ちも浮き立っていました。庭に建てられた園芸道具置き場の軒下で、ツバメ
が巣を作っているのを、今日発見したのです。家族の中の一番乗りです。今度こそお父さ
んは『我が家の可愛いウォッチ(当直)姫』と彼女を
呼んでくれるに違い有りません。
 色取り取りの煉瓦の上、アルルカンは逆立ちをして見せトンボをきり、鼓笛隊は市中を
練り歩き、人々は歌い踊ります。嘗て無い大規模なフェスティヴァルになりました。
 グロリアも踊っています。お気に入りの白いひだ飾りが一杯付いたドレスを着ています。
 初めこっそりと、次には水の上を流れながら回る春の花の様に。彼女の手を取っている
のは、体にぴったりした紺色のスーツを着た金髪の少年。
 グロリアより幾つか年上のお兄さんでしょう。にこにこと微笑みながら無口に、でもと
ても確実なステップを踏んでいます。暖かい日差しの中でくるくる回る、微笑ましい兄妹
の様な姿に、周囲の人達からも笑みが零れます。
 なのに。何故でしょう。永遠に続くかと思われた輝かしい長いフェスティヴァルが無事
終了した次の朝。街のゲートは東西南北どれも、ぴったりと閉じて、完全に外部の世界を
遮断してしまったのです。
 誰も考えもしなかったのです。街に住む人々は余りにも平和な時間を過ごして来ていた
ので。《戦争》がこの街を襲うだろう、なんて。
 生まれてより此れまでずっと住み慣れた少女の街。生まれ故郷を暗雲が覆った其の時、
一人彼女ばかりじゃなく、多くの人々が、冷たい風が虚空より吹き込んで来るのを感じま
した。街行く人々の柔らかな肌から染み透り、内臓
に達し、やがて骨までをも凍て付かせんとするが如く。其の時彼女の眼に、街の人々の身
体は、ガラスの如く、薄く透き通って頼りなげに見えたのでした。
 最早音楽も聞こえず街の歌も無く、通りを行く人々は、或る人は青ざめ、また或る人は
別な人と怒鳴りあっています。
 無邪気な小鳥の囀りは、幾百幾千もの軍靴の通りを行く軋む音に取って替わられ、花と
リボンで飾った馬車の代わりに戦車が街をのし歩くのです。
 お母さんはグロリアを抱き締め、涙を流しました。お母さんの香水の匂いがする涙でし
た。お父さんは運河に数箇所取り付けたサーチライトの光量を増すべく、あちこちに電話
をしています。其の後、お父さんはグロリアに頬ずり
をして言いました。
「良い子だね、グロリア=スワニー=エヴァハート。お父さんもお母さんも、お前を愛し
ているのだよ。おお、娘や、
君もお母さんも私も、何も悪い事はしていないのに。何故、神様は、この街に永遠の平和
の代わりに、苦しみを下さったのだろう。」
 何時もは小川のせせらぎの様に優しい声が、今日は身体の内部より突き上げる痛みを、
必死で堪えているかと思わせるほどに、淋しそうに聞こえたのでした。
「終わらぬ悲しみが無いのなら、何故希望を、明日が有ると言う望みを、マタドールが振
り翳す赤い布であるかのように、我々に見せるのか。我々は、それに向かって行かざるを
得ない。どんな結果に終わったにしても。時とは、
残酷なものだ。」
「お父様。」
 意味は解らなくても、声の調子から、思わず知らず、少女はお父さんにしがみ付いてい
ました。お父さんはそれに気が付いて微笑んで見せ、
「大丈夫。もう直ぐ戦争は終わるさ。きっと。」
 けれど、終わりはしませんでした。
 
憎しみと言う名前の巨人は、決して潰えないとでも言う様に。戦火はあっと言う間に広が
り、少女の街を取り囲み、
絶対防壁と詠われた高い城壁を少しずつ崩し始めたのです。
 その日その朝。地鳴りは低く這いずる音にも似て長く轟き続け、地平の上は赤くゆらゆ
らと燃え、頭上高く飛び交
う戦闘機は、白銀色の重金属の吼え声高く、両翼翻して虚空に次々と吸い込まれて行った
のでした。
 少女は独り目覚めました。家の中には誰も居ません。いつもならば朝食のテーブルに着
いている筈の時間なのに。
 着替えをして、庭に出ました。
 季節は風薫る五月。日に日に眩しくなる日差しが、ぐんぐん、花や草木を育てる季節。
薔薇も例外では有りません。
 赤や黄色や白や杏色の、花を咲かせる薔薇が、この家の庭には、まるっきdり庭が狭い
と言わんばかりに所狭しと植えられています。それなのに今朝は其処には、彼らの世話を
する人々が誰一人として居ないのです。
 ツバメが、佇む彼女の頭の上を、ついと飛びます。忙しげに、しなやかな身のこなしを
見せながら。
 ひんやりとした空気の中、少女がどうしたものか戸惑っていると、不意に玄関で、聞き
慣れたチャイムの音がしました。両親の筈は有りません。だって、自分の家のチャイムを
鳴らす人など、そうそう居ない筈ですもの。
 少女は小走りに庭を回って、玄関の前、藤棚の下で、少年の姿を見つけました。薄紫の
芳香がする、藤の花が、幾つもの繊細な影となって少年の顔を飾っていました。
 
意外さに、彼女の瞳が真ん丸く瞬きます。彼は、春のフェスティヴァルで彼女の手を取っ
てくるくると踊ってくれた、あの金髪の少年でした。少年は少女を見つけて、青い瞳を輝
かせました。
 あれから、一年と言う月日が過ぎ去っていたのでした。
 

 生垣を挟んで二人が向かい合います。
 薔薇と藤のあえかな匂いの中で、少年が口を開きます。銀の鈴の様な声音でした。
「久し振りだね、グロリア。」
 少年は少女の名前を覚えて家に訪ねて来てくれたのです。少女は嬉しくなりました。
「お久し振りですわね。えっと。」
 ちょっと赤くなってスカートの端をつまんで、精一杯礼儀正しく御辞儀した少女は、少
年の名前が思い出せません。
ですが少年は怒った様子も無く、
「ティムス。ティムス=カーヤです。」
 笑って言いました。笑った顔は、ヴァニラ・ミルクの様なのでした。
「ティムス。何の御用件ですの?」
「君を外へ連れ出しに。ミス=エヴァハート。」
 そう言って彼は、軽く御辞儀をしました。
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「私を?」
 少女は小首を傾げました。
「そう。貴女を。」
 彼は、生垣の彼女が居る側まで両腕を差し入れると、グロリアを軽々抱き上げて、良く
刈り込まれた山査子の樹
を越えさせるのでした。
「お父様とお母様は?」
 並んで立つと、少年の方がずっと背が高いのです。少女は彼を見上げなければなりませ
んし、少年は少し屈まな
くてはいけません。
「グロリア。それはね。」
 少年は言い淀んで視線を低くし、何事かを考えている風情でした。そうする仕草によっ
て、少女の目には少年が
大変に大人っぽく見えたのです。
「君のお父さんとお母さんが、何処にいらっしゃるかは知っている。」
「何処?」
 その時、轟音と共に、一機の戦闘爆撃機が、彼等の頭上を過ぎて行きました。一陣の風
がまた、小さな庭の中の少年と少女の髪を乱し、少年の言葉を少女が耳にする事は有りま
せんでした。
「“壁”が崩された時、その下敷きになって…‥。」
 しかし、意を決した様に頭を擡げると、少年は屈み込んで、少女の肩に両手を置いて、
彼女の眼を見て言いまし
た。
「さあ、行きましょう。」
「一人で?」
 思わずグロリアは訊ねます。つられた様に思わず知らずと言った感じで、ティムスが答
えました。
「いいえ。僕と一緒に。」
 お母さんといつも、買い物に行く時帰って来た時、先回りして我が家の門の開け閉めは、
彼女の役割でした。軽
い材質で、とても扱い良いのです。其処で、一度だけ、優しく手を引かれながら彼女は振
り返ります。薔薇の‘コンフィダンス’と‘ピエール・ドゥ・ロンサール’、青銅の噴水付
きバード・バス。ウサギの音楽隊のオブジェ。テラコッタの飛び石。
 黒く艶やかな葡萄の房は玉砂利の上、多く垂れ下がり。どの花壇のどの花に、一番蝶々
が集まるのかまで、グロリアは知っています。風に小さく揺れる手作りのブランコの上に、
これも同じく手作りのリースが置きっ放しになっていました。
 ふと、足元に湿った温かみを感じ、見下ろした彼女は小さく声を上げました。
「まあ。」
 濡れたボール紙の色の毛皮。黒っぽい色の垂れた耳。何処から来たのか、何時の間にか
仔犬が一匹、彼女に
纏わり着いていました。抱き上げて、胸に引き寄せました。呼吸の音が、耳に心地よいの
です。
「ふふ。」
 首環も未だ着いていない仔犬でした。此れまで自分の家から、或いは飼い主の家から、
一歩も出た事が無かったのかも知れません。
髪のリボンを外して、首環の代わりに結んでやる少女は知っていました。二度と此処には、
戻って来ないのです。
 遠い将来、誰かが彼女にこの彼女の生まれ育った家と庭と薔薇とブランコを見せ、『此処
だよ。戻って来たよ。』そう言うかも知れません。
 でも、彼女は知っています。二度と此処に彼女は、戻って来る事が出来ないのです。例
えどんなに戻って来たかったとしても。
 少年は、黙って少女を見守って、待っていました。全く同じ事を、考えていたのかも知
れません。そうしていると、物思わしげな瞳が、空の青より濃いブルーなのでした。
 ぴかぴかの、工場から出たての銀色のエア・オープン・カー。
 門の前でお行儀良く二人を待ち受けていたそれは、水面の上を滑る鳥の様に、音も無く
走り出しました。途端に、座席後部から、するすると、蛇腹式のホロが出てきた
 かと思うと、巻貝を思わせるフォルムですっぽりと頭上を覆いました。操縦席に少年は
座りましたが、操縦は車のコンピュータそのものです。フル・オート・ナヴィゲーション・
システム搭載の為、行き先をキーボード或いは音声入力するだけで、操縦者無しで、目的
地に最短安全ルートを辿って到着するタイプの乗用車なのです。
 華やかな、今は人通りも少ない大通りを、風の如くに走るそれの中で、シートベルトを
締めた少女は胸に抱いた仔犬を見遣り、苦しがって居ないのを確かめました。どこか遠く
で花火の音が聞こえます。一度では無く、何度も。
 少年は計器やモニターだらけの物々しいコンソールにどんな面白い、興味を惹く物が有
ったと言うのか、乗ったきり、口も利かずに、それらを凝視しています。
 見慣れた景色が、どんどんと後方へ過ぎて行きました。陽射しと街路樹だけが変わらず
に彼女と時候の挨拶を
交わします。彼女と。
 そういえば、此処等辺りは、お母さんと少女が特別な買い物をする為に、良く遣って来
た通りです。後ろ座席に小さ
く座ったグロリアは、まるで四頭立ての馬車に乗って、お誕生日のパーティに向かう王女。
見慣れた通り。沢山の
 想い出。全て置き去りにして過ぎて行くのは、時。時間。ああ、彼女の二本の脚は、そ
の速過ぎる足取りに、まるで付いて行けないかも知れないと言うのに。
「怖い、グロリア?もう直ぐだからね。」
 ティムスがグロリアの顔色をバックミラーで見て言いました。
「ええ。」
 目一杯余所行きの笑顔を見せてグロリアは、ティムスの白い歯に微笑み返しました。足
の下に有るのは、高分子
系アスファルトでは無く、煉瓦だとでも言う様に。
 やがて。
「着きました。ミス・エヴァハート。」
 恭しく、ドアをティムスが開けました。ドアを潜ったグロリアは、二本の脚で立ち上が
ると同時に、改めて息を呑み
ました。
 其処は、ミレニアム・ホールと呼ばれる、市の中心街に位置する大きな複合型施設の正
面玄関でした。真上の破風を飾る大きなアカンサスと、コリント式の巨大な円柱が幾つも
林立した様は、古代の劇場か神殿に見えます。
 今、多くの人々を楽しませ、働かせ、市の誇りであり、またシンボルともなって来た三
階建てのホールは、傾き掛けた西の空より陽を受けて、オレンジに、燃え上がらんとして
いるのでした。
「何処へ?何処へ連れて行くの?」
 リノリウムの廊下を、二人の急ぎ足に歩く足音と、グロリアの速い息交じりのあえぎ声
が木霊します。ティムスはグロリアの手を引いて、どんどん奥へ奥へと進むのでした。ミ
レニアム・ホールの内部に居るのは、現在彼等二人だけのようです。
「君のお父さんには世話になったんだ。」
「そんなお話、今初めて聞いたわ。」
「無理も無い。謙虚な人柄だったからね。」
 自分の家族の事を話す口調でティムスは言いました。
「彼のお陰で、僕は死なないで済んだ。」
 グロリアは、黙って頷くだけでした。
「素晴らしい学者でもあられた。」
 ティムスの長い指先は、エレヴェーターを呼ぶ時でも、木の葉にも似て軽やかに舞うの
でした。グロリアはそれを
見ているだけでしたけれど。
「色々有ったけれど、今は、これで良かったのだと思う。だから。」
 二人を乗せた殺風景なエレヴェーターは、一挙に階数を降って行くのでした。
「だから?」
 グロリアは思わず聞き返しました。その時、また何処かで爆発音。グロリアはよろけま
した。その細い小さな身体
をしっかり支えてティムスは言いました。
「それがどんな困難でも、悲しみですらも、時が、時間が解決出来ない物は、何も無い。
時こそは、世界最高の名
探偵であり、時こそが、生命そのものが生まれながらにして持っている救い(セイヴィア)
だ。僕は、そう思うんだ。」
 その言葉は、グロリアの胸にしっかりと刻み込まれたのでした。それと殆ど同時に、エ
レヴェーターの動きが止まり、扉が開いた向こうに、礼拝堂や大きな教会で見る、美しい
ステンドグラスが有るのを見て、グロリアは驚いて、圧倒されました。
 其れも其の筈。小さいながら、此処は教会の内部です。大きな十字架に木製の数人が並
んで座れる机と椅子が、幾つも整然と並べられ、樹木特有の柔らか味が、艶やかに人工照
明を撥ね返しています。
「彼等が此処を、何の為に造ったのかは解らない。けれど、此処の機能は何もかも正常で
あり、あと百年は万全
だ。」
 ティムスの声が、ミサで福音書を読み上げるかの様に荘重に響きます。
 厳かな顔付きの聖者が纏う衣服は、何と言う深い青の色でしょう。飛び交う天使達の何
と言う美しい顔貌でしょう。
本当にこれが、ガラスに幾つかの色を着けただけの物なのでしょうか?しばしグロリアは、
辺りの空間に魅せられ、うっとりと佇むのでした。
 祭壇の前に額づくティムスの姿までが、物語の王子めいています。その時、グロリアは
彼の足元に横たわるもの
に気付くのでした。
 小さなサーフ・ボードに透明な流線型の屋根を付けた様な物体。
 金属製らしく、照明を反射してきらきらと、海の泡にも似た色を見せて光り輝いていま
す。屈み込んだティムスが何処をかいじると、屋根だけが音も無く静かに開いて内部を見
せるのでした。
 薔薇色のシルクが敷き詰められたそこは、コントラバス・ケースの中に良く似て、丁度
グロリアがすっぽりと入りそうです。
 あちこちを押したり撫でたり摩ったりするティムスの唇に、嬉しそうな笑みが浮かびま
した。
「グロリア。」
 ティムスが彼女を呼びました。優しく。決然と。
 少し躊躇った時、腕の中で仔犬が、『さあ、行きましょう。』と言う風に鳴きました。少
女はゆっくりと、おずおずと其処に歩み寄りました。
 詰め物がされた内部は、何故か花屋さんの店先の様な匂いがしました。
 グロリアはしっかりと胸の仔犬を抱き直しました。
「怖くないよ。」
 そう言われても、グロリアはコールド・スリーパーに入るのは生まれて初めてです。見
上げるティムスの顔が、段々遠くなって行くのを認めて、慌てて少女は声をかけました。
でも、何と言えば良いのでしょう?さようなら?それ
とも?
「私の葡萄園……。」
 後は言葉にならず、少女と仔犬は夢の世界を伝い、風に乗って遣って来た、詩楽の女神
に抱き取られるのでした。
「僕なら大丈夫。」
 眠る前に彼から聞いたあの一言を、長いリボンにして髪に結んで。
 一年と言う時間が流れ去りました。長いような、短いような一年でした。最早瓦礫と化
したミレニアム・ホールの最下層から、仔犬を抱いた少女の眠る、人工冬眠ポッドが発見
されました。ポッドの保全状態が完璧に近かった為、
無事蘇生に成功し、グロリアと茶色の仔犬は、明るい昼間の世界に目覚める事が出来たの
です。
 ポッドの屋根は、この日も一年前のあの日と同じ様に音も無く開きました。
 やがて。身を起こした、薔薇色に輝く頬の少女は知ったのです。自分が初めからたった
一人だった事を。そして。
 自分が誰にも愛されていた事を。張り裂けそうな胸の痛みと共に、知ってしまったので
す。
 彼女が目覚めた、一年前と同じ場所。あの礼拝室。大理石の柱を背に、無残な姿を曝し
象った、ロボットでした。 ていたのは、金髪に青い瞳。すんなりした柔らかく真っ直ぐな四肢。美しい男の子の姿を
 
 夕闇に、彼女の悲痛な悲鳴が、いつまでも、響き続けるのでした。
 そのロボットは、嘗てこの都市が造りだした、大切なゲートを護る為の、番兵ロボット
の試作品であったと、彼女が知るのは、随分後の事になるのです。
 その時、少女は、グロリアは、幼過ぎて、言葉にする術さえ知らなかった言葉を、遠く
遥か彼方に居るだろう、懐かしい者に、囁き掛けるのです。
 ようやっと。絶え間無く休み無く流れ行く、時の中で。
「貴方は、時間に解決できないものは何も無いって言ったわね、ティムス。でも、これだ
けは許してね。いつか、長い時間の中で、もう一度貴方に会いたい。許してくれるわよね。
そう想いながら、生きて行く事を。」
 そう言う、彼女のドレスの裾に、そっと、あの日の仔犬は、少し大きくなった仔犬は、
鼻面を摺り寄せます。
 そして。
 少女が身を寄せた家の庭に咲く、薔薇。色とりどりの、赤や黄、白や紫、杏色の大小、
一重八重に咲き誇る薔薇の花々は。
 あの日のように、そっと、風に揺れ続けているのでした。懐かしく、いつまでも瑞々し
い、良い匂いを放ちながら。
 
 
                    The End
 
PR
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