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何と言うことは無い一日。何と言うことは無い日常。
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旧い友人の邸宅の前で、彼は牛車を停めて、降りた。
幸いに、如月の寒風の中、自宅を出がけには怪しく思えた天候も、今はまずまずの小康状態を保っている。これで細雪でもちらつこうものなら、彼はますます自分自身を惨めに思ったろう。
(疾く速やかに、あいつを、俺の長年の友人を、宮中に連れて来い、か。)
己を叱咤激励する為に、彼は、自分の役目を、もう一度、口の中で繰り返し、友の家の様子を、そっと、伺った。留守では、無いようだ。
主の開放的な性格を反映してか,正面門は開き加減である。しかし、それで無用心だと思うほど、彼はこの家の主に関する知識が無いわけでは無い。また、最近、腕が落ちたという話を聞いて本気にするほど、疎遠では無かった。とんでもない。
 準備は十分だと自分でも確認したと言うのに、もう一度、烏帽子を直して見る。
持参して来た物も、確認した時、少しく笑みが零れた。
 土産を持たずに、他人の家を訪ねるのは、例え旧知の間柄とは言え、どちらかと言えば、避けたいものだ。
 案内も乞わずに、初めて訪れる人の家の門を潜るのに等しい。
 最前から、日雀が啼き交わす梅の枝の下を、清冽な匂いに取り巻かれながら、灘の清酒の土産を提げた手が、くすぐったいような思いに、彼は捉われていた。これでは、直衣の内側まで、知らず、自然の内に焚き込めた香で匂いそうだ。
梅の匂いとはまた乙なと、友人の笑顔まで先回りして、思い浮かぶようだ。とも思う。
扁額が掲げられていないのを、ふと不思議に思う、古式ゆかしい木の門は、内側に向けて扉が開かれていた。
萌えかけた、灌木の新芽が眩しい。また、鳥の声がした。今度は、少し長い。
思わず、上を見上げる。表札は代わっておらぬ、当たり前の事だが。
文字は当然、本人の筆だろう。求めれば、書の名人にだって書いて貰えるだろうに。
どうも、とんと出世に興味の無さそうな友人への同情とも憧れともつかぬ、感情が、僅かに彼の胸を突き上げた。
いや、それも、この季節特有の何やら落ち着かぬ、言い知れぬ、一種の感傷か。
あえて、彼は両足を踏ん張るようにして、雑司が呆気に取られようと構わぬ思いで、扉の内側へと声をかけた。
『ごめん。たのもう。』

その声に応えて、いつもの案内役が出て来る頃、そう言えば、蕗の薹が出てくる時期だろうと、いらぬ心配を彼はしているのだった。

思えば、自分の家は何だろう。彼は思う。
頼まれた用事を果たす前に、これは一度、考えて見た方が良いのでは無いか。
摂家と言われる家に生まれ、家の為、自分の為と、がむしゃらに生きて来た。それを是と教えられ、また、その通りにもして来た。
利する所はとらえ、欲せざる所は捨てて来た。
だが、もしも、すべての人々が、そうしたら、どうなるのだろう。
それを思うと、足元が、ぐらりと揺らぐような気さえするのだ。
誰もがうらやむ高みに居ながら、彼は、底知れぬ深奥を見下ろし、また、深奥のそのまた底辺から吹き上げる冷たい風を、高貴血と呼ばれるその身体の面に浴びたような気がした。
風の中から、声が聞こえたような気がしないか。
怨む声。憎む声を。
何故、お前は生きていると、そう問う声を、聞いた気がしないか。冷たい風、血なまぐさい風の中から。
「若様?」
静かに歩を宮中の祭事に勤める神官さながら、進めて来た案内役が、烏帽子の下の形良い眉を僅かにひそめ、こちらを見ているのに気が付いて、彼は、ばつが悪い思いをしながら、我に返った。
今はそれ所ではない。
用件を果たさなくては。
用件。。。。。彼にとっては主筋でもあり大叔母に当たる、ある高貴な貴婦人の依頼。。。。
(夢見が悪いからと、俺を呼び出さなくても良いだろう。)



梅の匂いが廊下に漂う。主の事が、ふと心配になった。
まさか、この季節に、濡れ縁で梅見と洒落込んでもいまいが、いや、いないと信じたいが、しかし。
(あの通りの変人だからな。)
 いや、変人への依頼ではない。実際、時の帝より信頼されているのは、この度依頼に及ぶ(予定の)彼ではなく、この家の主当人であると断定しても過言では無く、現に彼は此処にいるではないか。
 こうして。
 殊更。己の立場に誇りを持たんとして、胸を張り加減にしたその時。
 鶯が鳴いた。丁度、左手に薫り高い白梅の枝が、小さく揺れているのが見える。
 同時に、彼は溜息を付いた。
 こんな日にお役目などと、つくづく、嫌になる。その上、ただでさえ、人一倍“聡い”事で有名な男に、なんなら、おべんちゃらの一つも言って、重い腰を上げさせようと言うのだから。
『友よ。宮仕えとは、何なのだろうな。』
「どうぞ。こちらです。」
 しなやかな挙措動作で。広い座敷の奥を、案内役が、袖を掲げるようにして、指し示した。白い指が指し示すその方向に。
 ほぼ予測していた事だが。
 この家の主が、座っていた。ただし、彼からは背を向けた格好、開いた障子の向こう、濡れ縁から、やはり、外を見ていた。
(雲が切れている。)
 陽射しが、几帳にかけた絹の如く、蒼い空から、ふわりふわりと、その両肩に差し込んで、ほつれ気の一本も無い、見事な頭の形を丁度浮き彫りにしている。顎から耳の線は見えるのに、表情は陰になって、見えない。
 構わず、勝手知ったる知己の家よと言わんばかりに、一歩踏み込んだ。
「おい。しばらくだな。どうしていた?せ・・・。」
その時。
 桜の花弁が、舞った。
 一片。はらはらと、香の風を纏って。
 言葉に詰まって立ち尽くした彼の周囲を。
此処が、屋敷内であると忘れた風景が、取り囲む。
 満開の、一面の桜の巨木の群れ。青空に、一重八重、十重に二十重に、咲いて重なり合い、弥生の春風に枝を揺らす。
(ああ。しまった。これは、花見の服装ではない。)
 彼は、桜色になりかけた思考の片隅でそう思った。
 直ぐ近くの緋色の枝の上で、山鳥が尾を揺らし、また、高い空の風の音がした。

   深房春暖かならねど
       花雨自然に来る
  (訳:奥深い部屋にはまだ春はやって来ない。だが花は雨さながら、おのずと天から降る。)

 若い女の透き通った声が、りん、とふいに響いた。
 ごお、と、強い風が吹いた。緋色の風が。彼の帽子と言わず、衣服の裾と言わず、花弁が乱した。幾百、幾千もの、桜の花弁が。

「おい。」
 澄んだ声が、彼に呼びかけた。濡れ縁の上で、友が彼を振り向いて、怪訝な顔を見せている。
 紅梅が、花弁を鳥に啄ばませている。
「おい?」
 彼は我に返った。と、同時に、身体が自然に進んで、いつもの通り、友の方へと歩いている。見ると、祭事の折りの様な格好をした案内役も、小首をかしげて、彼を見ていた。
(今のは、一体・・・・?)
「どうした?その酒は?…早過ぎる花見の酒か?」
「まあ、そんな所だ。」
 冗談には冗談で返す。と言うより、相変わらず、実に俊敏なまでに、賢い男だと、彼はそう思った。そんな所もまた、彼がこの友を大好きな理由なのだった。
 だが。桜だ。
 あれは、友の見ていた風景なのか、と、彼は自然に腑に落ちた。この当代一流の男の家で、彼は、友の家に張られた結界の内側だからこそ、見られる風景を、今日、たった今、見たのかも知れない。
 彼は、どっかと腰を下ろし、さて、どう切り出したものか、胸に思案を凝らしながら、口を開いた。手の中で、そんな彼を励ますように、たぽん、と、酒が揺れる。
 何処で焼いているのか、干魚の匂いがする。
「まさか、頼み事か?真剣な顔をしておるぞ。」
 冷涼な顔に、自然笑みを浮かべながら、きっとこの男は、引き受けてくれる、そんな表情をしていた。
 彼は、胸の中で、もう一度、溜息を付き、頭の何処かにまだ、残っている、桜の幻影を追い払った。
「実はな、晴明。宮中で、少々問題が起こった。」
「ほう。」
肯くその手に、もう杯を取っている。
「妖しの出来事だ。」
 彼は言った。
「つまり。」
 彼が言い募らんとするのを、白い掌が掌紋をこちらに向けて遮った。
「わかったよ。とにかく、初めから、順序だてて、この、安倍晴明に話して見よ。」
「おお。それでこそ、晴明。わしの友垣じゃ。」
 彼は、当代一とされる陰陽師の底知れぬ輝きを湛えた瞳を見据えた。
「実はな・・・・。」
と、膝を乗り出す。
 窓の外で、鶯が、谷渡りの鳴き声を、梅園ばかりではなく、庭全体に響き渡らせていた、如月の午後の出来事であった。

 

               *   The End *

 Tuesday, May 05, 2009

 

注:文中の詩は、嵯峨天皇の五言古詩。
  訳文は、大岡信氏の訳を、参照させて頂きました。
 

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