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何と言うことは無い一日。何と言うことは無い日常。
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最初に思ったのは、枯葉の上で、蝶が死んでいる。
ミズナラの林の中、ぽっかりと、そこだけが明るい。木漏れ日を受けて、輝いているかのように。

誇張では無く、本当に、そう思ったのだ。

空から落ちた時の、最後の羽ばたき、そのままに、ああ、蝶が死んで落っこちている、と。

勘違いに気が付いたのは、歩きながら読んでいた本を閉じて、その場所に近付いて見た時だ。

思わず知らず、自分は息を付いていた。
美麗にして精緻な細工を凝らした、宝飾品だと、一目では、どうしても、気が付かなかった。
「何だ、ブローチか?」
屈み込んで、しげしげ、観察して見るに、金属の平たい板で、枠組みを作り、その中に、色取り取りの石や色つき硝子(多分)を嵌め込んで、翅を開いた蝶の形にしている物だ。
全体として、破綻もなく、生き生きとした動きすら出している所は、やはり、相当に凝っている。

さて。どうしようか。ためすがめつ、どこも壊れた所が無い。留め具も無事のようだ。
何だか、生きた蝶の無事を確かめるようで、少し、ほっとする。誰かが落としたのは、間違いない。届けるか、それとも。
迷っている内に、たんたん、と、音がする。
頭上でしたかと思っていると、今度は、私の肩を叩いている。小さな水の雫が、私の衣服を、濡らし始めていた。

私は慌てて、思った。本が濡れる。大事な本が濡れてしまう。しかも、まだ、読みかけなのに。
走り出す。雨宿りが出来そうな場所に向かって。

家に帰り着いて、まだ、夕食前だった事を、思い出した。
スープの残りを温め、サラダを整え、パンを焼く。
簡単なメニューの支度をして、自分の腹に入れて、熱いシャワーを浴びる。

どうにか、人心地が付いて来た頃、窓の外が、やけに明るい事に、気が付いた。

月が出ていた。いつの間にだか晴れていたらしい。
扉に、ノックの音がする。タオルで頭を拭いていた手を止めて、ドアを開ける。
息を呑んで、一二歩、思わず、後ずさる。

そこに、全身黒ずくめの男が立っていた。
長身で、目深につば広の帽子を被り、殆ど、顔の表情が見えない。
コートを着て、月明かりの中に、光源が存在すると言うのに、シルエットしか解らないほど、その姿は、闇の中から現れたかのようだった。

「あの、何のご用件ですか?」
「今日、髪飾りを拾ったでしょう?」

意外や、滑らかな、声であった。地の底から響いて来るような声を、半分予測していたこちらとしては、脱力するほど。

「髪飾り、ですか?」

・・・・少し、考えたふりをする。当然、あの蝶を象った物に間違いないのだが、この男が持ち主とは、考えにくかった。しかしながら、当然、男の言葉を疑う理由も無い。

「あの、蝶々の?」

いやいや言っているとは、あまり思われたくない。あえて、快活な口調を意識する。

「そうです。そうです。」

男は、満足気にうなづいた。

「あれはですね、私の物なんですよ。作りかけでね。」

「考え事をしながら、歩いていたら、落っことした?」
何故か閃いたものがあって、私は考えた事を口に出した。こんな事は、珍しい。

「いや、その通りなんです。色彩のバランスが、どうも、その、今一つなのでね。」
「つまり、あなたが、作ったのですか?」
「ええ、まあ、そうなりますか。」

男は、余程、嬉しかったのか、帽子のつばに手をかけた。しかし、帽子は取らない。
男の目の光が、大変に強いのがわかった位だ。

「少し、お待ち下さい。」
私は、部屋の中を、振り向き、そのまま、立ち尽くした。
部屋の中の、東と西の窓一杯に、蝶が張り付いているのに、気が付いたのだ。色取り取りの蝶達が、翅を広げて、そこに、群がっていた。あたかも、外から部屋の中を覗き込んでいるかのように。
部屋の中ばかりでは無く、玄関上の天窓、台所の張り出し窓、暖炉の上の明かり取りの小窓に至るまで。

宝飾品では無い、絵画でも無い、生きた、蝶。
この夜の夜中に。生きた蝶が密集して、我が家の窓に張り付いている。
何十羽では、到底、きくまい。何百羽となく、我が家の周りを取り囲んでいる。

生まれて始めて、こんなに沢山の蝶を、今夜、私は見たのだった。
とにかく、我と我が身を叱咤して、一つ、唾を飲み込むと、私は、髪飾りを仕舞っていた場所の引き出しを開けた。

柔らかい紙の上に、眠っているように横たわっているそれを見て、心から私はほっとしたものだった。それをそうっと手に取った時、掌の中で、僅かに身じろぎしたようにすら思えたが、勿論私の気のせいだろう。

「どうぞ。これに、間違い有りませんか?」
そう言って差し出したが、勿論、他に私には心当たりが無い。ぞろり、と、窓外の蝶達が羽ばたいたのが、解った。

「間違い有りません。これです。」
男に言って貰えた時は、こちらから握手を求めたくなった位だ。
「有難う御座いました。」
男は、深々と私に頭を下げた。安堵の色すらにじむ声を聞いて、何故だか私は眠くなってしまった。
余程に安心したものらしい。
欠伸を噛み殺しながら、
「それは、良かった。見付かって良かったですね。お休みなさい。」
もう一度、開いた扉の向こうを見直すと。既に、男はおらず、窓を埋め尽くす蝶の姿も消えていた。

秋の夜の、一場の夢のように。
ふと、月を見上げる。皓々と、夜空に輝く、半月が懸かっている。
その姿を背に、ひらりと、飛んだ影が有るような気がして、眼を凝らした。
同時に、耳を澄ます。

“有難う”

と、聞こえた気がしたのだ。

“私を見つけてくれて、有難う。”

と。


           * The End *
 

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「古代の遺跡の前で、写真を撮りたいなんて、お客さん、そりゃ、無茶だ。」

タクシーの運転手が、いつもの調子と言った様子で、遠来と直ぐに解る格好のお客を宥めている。

この地方の何処に行っても、同じような情景を見る事は出来るだろう。
背景は、様々だろうが。

今日のお客は、二人。熟年のいかにも正直そうな夫婦ものだ。
無理だろう。私は思った。
そんな事言っても。
品の良い奥様の手には、既にニコンが握られている。
旦那様の方は、憮然として、腕を組んで、遺跡を眺めている。

一番近い街から、車に揺られて二時間余り。だだっ広い、丈の低い草が小波のように揺れている。
山脈から吹き降ろされた風が、年中絶えることは無い。
草原のど真ん中に、その遺跡は有る。
千年近い風にさらされた神殿の前玄関とも伝えられる、古代の遺跡は、三角形の屋根を持っている。イオニア風の柱は、昼を過ぎた太陽の光の中、逆光となって、シルエットしか解らない。

「ご存知でしょう?遺跡って言うのは、文化財でして。特に此処のはね、文化庁から許可を頂いて、公開していると言う訳で。」

それにしても、良い天気だった。風が気持ち良いと、しみじみと思う。
連れと一緒に、他の観光客に混じって、そぞろ歩きながら、ふと、我々はどのように見えるのだろうと、想像してみた。

それが、この場合、重要な問題と言うわけでは無い。念の為。

兄弟かな?妥当な線だろう。

ただ、あまり、似ていないが。黒髪と金髪だし。

家庭教師と教え子の二人旅?

有り得るかも知れない。

「喉が渇いたか?ジョッシュ?」

ふと思いついて、ツアーの客と一緒にバスを降りた時から、黙りがちの連れに聞いてみた。

「いや。」

返事はすぐさま、返って来る。

「んー。でも、お腹は空いたかな?」

ほっとした事に、声は結構、明るかった。

「サンドイッチは売っていたかな?」

私は辺りを見回した。

「文化庁の遺跡なんだろう?ランディ?」

吃驚したように言うのへ、私は目を遣った。

いつも同僚と話すより、三十cmは低い位置へ。スーツにネクタイを締めた十代前半の少年が、こちらを見上げている。
唇の辺りが、やはり、お母さん似だなと、関係ないことを思った。

「何がだ?ジョッシュ?それと、文化庁の遺跡?言葉の使い方が間違っているだろう?それは?」
「良いのか?サンドウィッチなんか売って?」
「あら、坊や。ここのサンドウィッチは、文化庁で許可を得た人が作って、売っているのよ。」
横合いから、同じツアー客の女性が口を出す。

連れらしき若い女性の所へ戻って、
「あの金髪の坊やがね・・・。」
と、報告を始めるのを待ってから、

「そうだってさ。」
私は言った。肩を竦めながら。
「わっかんないなー。」
ジョシュアはふくれっ面でそれに答えた。
「大人のやる事って。」
その後、私を見上げ、一言。
「あ。」
と言った。およそ予測された展開であったので、眉を上げて見せ。
「勿論、僕はまだまだ、若いとも。」
と、言ってやる。
「ごめん。そんな積りじゃ。」
「止せよ、ジョッシュ。」
私は言った。・・・・そうしないと、こちらが泣きそうだったのだ。

不意の攻撃は、未だに慣れない。成る程、“コミュニケーションは会話。”か。

「何か、思い出せそうか?」
「ううん。」

即座に首を振る彼のことを、流石に可愛らしいと思った。今にして良く分かる。
大人たちが、彼を、彼の方を呼んで、お菓子をやって、『皆で分けなさい』と言った理由が。

しかし。実は、我々は、同じ歳なのだ。

今、ジョシュアは、十二歳位にしか見えない。
私を見て、十八歳以下だと思う人間はそうはいない。事実、二十歳になっている。

だが、出生届は、一ヶ月違いで提出されている。

およそ、信じられない事実だが。

あの日の事は、良く憶えている。いや、忘れられない。

ジョシュアがいなくなった日の事を。


私達、ジョシュアと私が生まれ育った小さな村にも、この土地と同じように、小さな、古代の遺跡が有った。

隠れんぼしていたジョシュアが、太い柱の一本を、くるりと回りこんだ。
そして、それきり、消えたのだ。

声を涸らして探しても、彼は出て来ない。村を挙げて探しても、結局、行方不明とされた、あの日の事を、私は未だに忘れない。

もしかしたら。それだけなら、良く有る《神隠し》で済んだのかも知れない。
(しかし、子供の行方不明を『良く有る』と表現しなくてはならないとは。正直、心中忸怩たるものがある。)

異変は二ヶ月前。彼が、ジョシュアが、村の中心部、井戸の側で発見された事に始まる。
そのままの姿。行方不明になった日と、そっくり、同じ姿で。

知らせを受けて、私は大学に休暇の届けを出し、走りこむようにして、村へと帰還した。

その時、初めて確認されたのだが、彼は行方不明になってから、今日までの記憶を、すっかり、失っていた。

何処で何をしていたのか、
どんな暮らしをしていたのか、今に至るまで解らないままだ。

最初、彼は、私の事をなかなか、認められないようだった(それは、そうだろう)。

しかし。彼の失われた記憶を探し出そうと、近隣の遺跡を経巡り歩いたり、相談に乗ったりしている内に、言って見れば、昔の“勘”が立ち戻って来た。

最近では、私と会話しながら、笑顔を見せる事も有る。

ジョシュアが、ふと、溜息を付いた。
私は彼の肩を軽く叩き、

「やはり、飲み物を買って来る。サンドウィッチを喉に、詰まらせる訳に行かないからな。」

「あー、その、使ってすまない。ランディ。」

古い歴史の有る遺跡を眺めながら、眉根を寄せ、考え事に耽っている風のジョシュアに軽く手を振って、私は売り子のいる方角、見当をつけていた方へと歩き出した。

風が追い風に吹き、彼の呟きを私の耳へと届けた。まるで、それこそが、古代の魔法であるかのように、その時、思えた。

風は、言った。幼友達の声で。

「リップ・ヴァン・ウィンクル。まさか、自分の身に起こるなんて。」

妖精の国で一日暮らし、還って来た時には、生まれ故郷には、誰一人、彼を知っている者がいなかった。
妖精国の一日は、人間の百年だったのだから。
有名な伝説の主人公の名。

私は振り向いた。彼が、確かに、其処にいるのを、確認する為に。

そうせずにいられなくて、振り向いた。

そして、其処にいる彼に、私は手を振った。

もう一度。

 

      * The End *

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小鳥の啼き交わす声で、眼が覚めた。

昨夜は飲み過ぎた。

でも、絶対に、自分ひとりの責任では無い。

眼を覚ますと、いつもの寝室の天井が、朝の光の中で、眼に入る。

久し振りに、昔の友人に出会ったのだ。

頭痛がする頭で、どんな話を、居酒屋でしたのか、思い出そうとする。

色々だ。


子供の頃の事。学校の事。釣りの事。


熱いエールを何杯もお代わりして、何が悪い。


いつの間にだか、周りにいた人間を巻き込んで、乾杯の掛け声を繰り返していたような気もするが。


だったら、どうだと言うのだ?


大人が、自分の責任で飲むのなら、何も構わないのでは無いのか?

考え事をしながら、寝返りを打った時だ。

ベッドと平行して置かれている長椅子の上に、何かが、見慣れないものが、有るのが、眼に入った。

(縫いぐるみ?)

ジェシカにそんな趣味は有ったろうか?

緑色の長い、先が折れた帽子を被った妖精の人形の、縫いぐるみ何て・・・・・?
なかなか、良く出来ている。点々と散ったそばかすと言い、古風なデザインの靴と言い。
しかも、凝った事に、この縫いぐるみ、あるいは人形は、自分の腕を枕にして、眠っているポーズをとっているのだ。長椅子に、ぴったりだ。

次の瞬間、ぎょっとして、その拍子に、息が止まりそうになった。

それ・・・妖精の人形は、寝息を洩らしていた。大人の半分以下の小さな身体は、確実に、規則正しい呼吸を繰り返している。

がば、と、慌てて、ベッドの上、身を起こした。

(どの位、酔っ払おうと、妖精を、家に引っ張り込んで、泊めちまったのか?)

殆ど同時に、レモン色の眼が、開いた。
こちらを見るなり。身を竦ませていると見て、

「パードン。」

乾いた紙の様な声で言うや、僅かに開いた窓の隙間から、ひらりと、身を躍らせ、消えた。

窓を開け放つも、其処には最早、誰もいない。足音すら残さずに、その不思議な存在は消えてしまった。

証拠すら、残さずに・・・・?

顔を洗おうと、居間に入った。その眼前に、また、不思議なものが、現れる。
其処に、立ち尽くした。

「ジェシカ、これは、一体、どうしたんだい?」

「何が?ダーリン?」

「この季節に、桃なんて、驚くじゃないか。」

「え?本当?まあ、本当だわ。何故、こんな所に、桃が?それも、二つも?」

「不思議だね。」

「ええ、何だか、お礼みたい。」

腕を組み、首をひねる二人の窓の外、白い雪が、また、ひらひらと、天から舞い落ち始めていた。

 

              * The End *

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新しい花が、広い庭の、入り口近くの薔薇の繁みに咲こうとしていた、晩秋の午後。

街一番の病院に、一人の見舞い客が訪れた。

話し声と行き交う人々(特に看護婦)でざわざわしている廊下をくぐり抜け、客はコートの裾をひらめかせ、とある病室のドアを潜った。

途中、2階の窓から、階下の庭を見下ろす、入院患者の側を通り抜ける時も、そちらをちらとも見る事も無ければ、此処に至るまで、誰にも案内を乞うことも無く。

晴れた日の病室。花瓶の百合と丁度、待っていた、若い背の高い医師が、彼を迎え入れた。

客は、開口一番。

「病人の具合はどうです?」

「お喜び下さい。」

医師は、このような男には珍しい、満面の笑顔で告げた。

「年内には退院の手続きが取れますよ」

「何と、そんなに。」

見舞い客は、流石に喜びを隠し切れず、しかし、明らかに驚いた様子で、改めてまじまじとベッドの上の病人を眺め下ろした。

「話には聞いていましたが、まさか、其処までとは。いや、先生、お見事です。」

「いやいや、とんでもない。」

そこで、初めて、医師は溜息を付いた。

「お分かりでしょう?“あれ”のお陰ですよ。どちらかと言えば。」

肩を竦める動作が、嫌味にならないのは、人柄だろう。
客も、そこでやっと、“あれ”に耳を澄ませる動作を見せた。

“あれ”。

それは、今も、何処からか、病院の内外に響いている、歌声だった。

高く、低く、柔らかく、優しく。

今、客と医師のいるこの病室の中一杯に染み渡るように、聞こえ続ける。

何語とも知れぬ言葉の、語りかけるような、宥めるような、訴えかけてくるような。

音域の広さに、ある人は男性であろうと言い、声量の豊かさから、別の入院患者は、絶対女性だと言い張る。

朝から晩まで、正確に言えば、起床時間から就寝時間まで彼或いは彼女は歌い続けて来た。

この歌声が、始まった時より、ずっと。

不思議なことに、いや、ミュージック・セラピーの専門家なら、喜んだろう。
入院患者の、早期回復が報告され始めていた。そればかりか、外来患者のカルテに、通院必要なしの事項を書き込む枚数すら増えて来たのだった。

この病室の患者も例外では無かった。

極端な昏睡状態が続くのは、発病の時期から変わらぬながら、今はすっかり、呼吸が楽そうになっている。
看護婦を夜、呼ぶ回数も減った。

医師達になら、徹底出来る、緘口令も、看護婦相手では、どうも勝手が違うと言う、病院の“常識”も、客は、見舞いに足繁く通うようになって、初めて知った。

確かな事は、唯一つだ。
客は、しげしげ、今日は顔色がしみじみ良くなったと見える、少し体重も回復した患者の顔を見守った。

“妖精の歌”が始まったのは、この患者が入院した時期と、丁度一致している。

「変わった事が有ったら、ご連絡致しますよ。」
不意に、医師が、口を開いた。
「あなたの、あー、職場まででも。」
「恐れ入ります。」
客は頭を下げた。
「正直、彼がいませんと、二進も三進も、いや、つまり、後は彼の回復を待つのみなので。」
鼻をかきかき、
「事件の重要な証人に、是非、健康を取り戻して頂く事が、市民の安全を守る上で、大変に重要な。」
「分かりますとも。」
医師は、客の、慣れぬ長広舌を遮った。
その時。
病人が、ぽっかりと、眼を開いた。
客を見ても、驚く事無く、微笑みかける。
かえって客の方が、所在を無くして、口を開こうとする所を、今度は、患者の声が遮った。
歌は、聞こえ続けている。或る医師はゲール語であろうと言い、別な警備員は、アラム語に違いないという歌が。
最早、BGMのように、この病院のありとあらゆる場所に。歌が、敷衍し、氾濫している。
「・・・夢を、見ていたんだ。」
患者が、言った。
「夢?」
優しく、客が応じた。
「小さな頃の夢だ。釣りをしていたら、川の中に仕掛けた網の中に、良いか、笑うなよ。緑色の折れた帽子を被った、翅の生えた子供が掛かってしまったんだよ。」
「ほう。レプラコーンかな?可愛い子供だったろう?」
医師が、言った。
「離して上げたんだが、喜んでいたよ。いや、違うか。別れる前に、二人で、魚を素手で掴む競争をしたんだ。」
「へえ。そうなのか。」
「楽しかったよ。」
にっこりと、誰にでも分かるほど、口の端を上げて、患者は笑った。
其処へ、医師が、毛布を首の上まで引き上げてやった。
「さあ。君は眠るんだ。眠りすぎなんて、言わせないぞ。」
「はい。先生。」
「お休み。また、来ますよ。」
患者は、目を閉じる。程なく、寝息が、すやすやと聞こえた。二人は同時に、安堵の溜息を付いた。
窓の外で、銀杏の葉っぱが、はらはらと散った。それを惜しむかのように、歌声が高く切なくなる。
「彼が退院したら。」
おや、と、客は思った。先生、独り言か。
「この歌も、聞こえなくなるんだと思うと、少し、寂しいかもな。」
ただ、絶対に、学会に報告出来ない症例だが。

煙草を吸いたくなった客が、休憩室に誘うまで、医師は、窓の外を眺めながら、“妖精の歌”に、耳を傾けているかのようだった。

そして。

たしかに、医師の言う通りになったのだ。


     * The End *

   
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