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“チコリ”と言う名前の猫がいる。
鈍色の毛皮に、シトロン色の虹彩を持つ瞳。ごくごく、普通の雄猫だ。
我が家で五年、飼っている。食生活は、飼い始めた頃は、それこそ、ぶっかけ飯でも構わず、顔を突っ込んでがつがつ喰っていたものが、最近は、缶詰のマグロが無いと、食事をした気になれないらしい。
変われば変わるものだ。
雄猫は、旅をすると言われているのは、我が家のチコリの場合、あてはまるらしい。良く、ふらりと夜中に出かけて、次の日の夜明けに、とんとんと、庭に面した吐き出し窓を前足で器用に叩くのだ。
開けてやるのは、僕の役目と言う訳だ。ぶつぶつ、言いながら。
「あら、それ以外に、お前に、どんな我が家の役目を言いつけたかしらね?私は?」
と、母はしたり顔で呟き、父はその傍らで、毎朝全ページを読むのが自慢の全国紙を開いている。番組欄から社説まで、何でも読むのだ。勿論、“天声人語”のようなコラム欄に至るまで。
何処にでも在る、極く普通の家庭。
別に、旅をするのが悪いと言っているのでは無い。日本家屋の通例として、猫用の出入り口なるものに我が家は縁が無い。濡れ縁の縁の下なら有るのだが。いや、実際の話。
人間だって、遠出がしたくなるだろう、隣街だって、旅行には間違い無い。
そう考える自分は、相当に、旅行がしたくなっていたに違いない。公営ホテルだって、別に構わない。
名物料理なら、食べたければ、駅の近くで食べればいい。
電車に揺られながら、通り過ぎて行く景色を眺めながら、近付いて来る山麓を遠く仰ぎながら、自然に笑みが零れる。
旅とは、何だろう?日常からの逃避でだけは、有り得ない。
人間とは、逃避にどれほどのエネルギーを使い果たすのか?逃避とは防衛で有りうるのか。
そもそも、ここまで、討論に時間と知識と蓄積されたデータを投入しなければならない、日常とは、そも、何で有り得るのか。
大学の帰りに、国道をふと打ち眺めていただけで、ぐらりと眩暈に捉われるほど、思った。
旅行に行きたい。
こうなると、本当に、隣街にイベントを見に行くだけでも、旅行になってしまう。安い願望もあったものだが。
金曜の夜になるのを待ちかねて、革のボストンバッグに替えの下着その他を詰め込んだ。
特別な物は要らない。日常を脱出するのは僕なのであって、携帯電話やエアナイキでは無いのだから。
幸い、今回の行き先は、隣街では無かった。
結論から言うと、思い切り、道に迷ってしまったのだが。
少し、ガイドブックに有る場所(滝とか、史跡とか)を、ガイドブックの地図の通りの道を伝って、訪ねて見る積りだった。
何処で、東西の感覚が狂ってしまったのか、思い出せない。
ぐるぐるぐるぐる、同じ場所を歩いているのかも知れない。小説や漫画で読んで来たシチュエーションに、まさか自分がなるとは思わなかった。
“富士の樹海でコンパスを使うと、死体の方向を向くんだって。
だから、何処を歩いても、死体にぶつかるんだよ。”
誰が言ったんだっけ?
高校時代の事を思い出す。
一緒の大学を目指していた少女がいたことを。
古風な趣味と嘲られるのを覚悟で言えば、長い髪の綺麗な、細面の少女だった。
制服の上から羽織った、ざっくり編まれカーディガンが似合うなと思っていたものだ。
待てよ、あのカーディガンは、ひょっとして、手編みだったのだろうか?同系色のボタンがお洒落だった。
頭の上で啼き交わす尾長鳥や鴉の群れ。更にその上に覆いかぶさる巨木の樹冠は、殆ど、空を隠している。空気は暗い。ひたすらに暗い。
あの、彼女と一緒にフランス革命の事に付いて調べた、図書室の明るい雰囲気とはあまりに違う。あの、木製の質素なテーブルの色は、白い指先と似合っていた。
富士の樹海で考える事としては、有意義なのでは有るまいか。
歩き疲れて全身が痛い。脚の感覚が無い。足先は膨れ上がって、熱を持っているようだ。
いや、痛みに空腹と喉の渇きが合わさって、苦痛とはこの事か。
確かに、快楽ではないな。
僕は、湿った枯れ草の褥に突っ伏しながら、思った。枯れ草なのに、緑臭いと言うのは、どう言う事だ、それにしても?
指一本動かせない。実に情けない。唇から漏れるのは喘鳴のみと来た。ぜーはー、ぜーはーと言う。
ダウンが湿って重い。ひょっとして、僕の衣服から頬から額から濡らしているこれは、夜露か?
携帯電話の入ったベルトのポーチが腹の下から、さらに空きっ腹を刺激した。
役立たずめ。肝心な所で、アンテナが立たなくなりやがった。
充電はして来たんだけどなあ。
アンテナが立つ所まで戻りたくても、右も左も解らない。さあ、どうしよう、だ。
宿の人達、心配しているかなあ。大きな荷物は置きっぱなしだ。
何かが、枯葉を握り締めた、僕の左手を、舐めた。
湿った舌。
正確には、中指と薬指の間の付け根部分。そうっと、柔らかく。
これは、
いつも、ベッドにだらしなくうつ伏せになって、うつらうつらしている時、そうっと抜き足差し足で近付いて来て、ぺろりと舐める、お馴染みの、猫の舌。
猫・・・・・。
かすむ眼を開いて、ぐきぐきと首を動かして見る。
次の瞬間、僕の眼以外のすべての筋肉が脱力するのを、奇跡的に残っていた体力の残滓が食い止めた。
何を大げさなと思われる向きも有るかも知れないが、本当に、其処まで追い詰められていたのだ、僕は。
レモンイエローの瞳が、小賢しげに、青みがかった闇色の毛皮の中心から、僕を見つめていた。
「ち、チコリ・・・・・?!」
一体、いつの間に近付いて来たのか、猫が、猫足(パ・ドゥ・シャ)なのは当たり前だが、しかし。
これは、本当に、僕の家の猫なのか?!そんな馬鹿な事が、有る筈は無い。家からどう考えても、直線距離にして二百キロメートルは離れている。
朝出発した時、フライパンを持って、欠伸しながら目玉焼きを作っている母の足元にじゃれついていたのに。
「にゃあ。」
チコリは、一声啼いて見せ、その瞬間、しりん、と、えもいわれぬ、良い音が伴奏代わりに辺りに響いた。
僕の眼は、彼の首の鈴に引き付けられていた。僕が買ってやった鈴。
シトロンイエローの瞳に良く映える、黄金の色。
センスは良いな、と、父には感心されたものだ。…彼が、真相に気が付いていたかどうかは、神のみぞ、知る、だ。
同じ大学に受かった事を、お互い、これ以上は無いと言う絶賛に埋まった電話を切った後、僕は、携帯のストラップに相応しい物は何だろう、と言った彼女の呟きを思い出した。
鈴。鈴なんかどうだろう。可愛いし、ほどほどの自己主張が有るような気がするし。
駅前に、ファンシーショップ、つまり、女の子も好きそうな小間物屋が有ったよな、僕。
見るだけ、見ても。
沢山の品物が並ぶ、華やかで可憐な商品が思い思いに客の目を引き付ける、其処はちょっとした、ディズニー・ランドだった。
いや、そもそも、ディズニーの商品も売っていたか。
お目当ての商品は思ったより容易く見付かった。待てよ、可愛すぎるかな。
そう、思った時だ。
「で、さ・・・・。合格祝って、何が良いのかな、いや、自分のじゃなくて。」
「あ、これ、合いそう。」
何と、商品棚を挟んで、背中合わせに彼女がいるじゃないか。隣のクラスの友人と一緒に。
考えて見ればおかしくは無い。この店は駅前に有るし、彼女の自宅はこの界隈に間違い無いし。
可愛くて、少しだけ値の張るものを買おうと思ったら、ぶっちゃけ、この店しか無いのでは?
聞くともなしに会話をぽつりぽつり、聞いた後、ほどなくして、僕は、勘定を終え、その店を足早に出た。
三月の街は、氷に閉ざされていた。
重い鉛色の空から、店内で聞こえた会話が、繰り返し、再生されて僕の、脳内に届く。
彼女には、彼がいた。ポケットの中で、買ったばかりの鈴が、鳴った。しりりん。
最早、棚に、握り締めた、それでも、毀さない程度に握りこんだそれを、戻す気にすら、なれなかった。
その晩、霜と一緒に、霙が降ったと言う。
晩飯は、僕の好きなオムライスだった。
毎日、僕の好きなメニューが出る食卓。だったら、良いな。忙しい毎日の中で、いつか、彼女の事を、忘れたら。忘れられたら。
次に遭ったら、僕達、友人ですってか。それも良いか。
僕の小遣いを綺麗に圧迫してくれた鈴は、結局我が親愛なる飼い猫殿の首に収まった。
良く似合うと、彼を知る誰もが言う。
「にゃあ。」
富士の樹海の何処だか解らない。遊歩道からさほど離れていまいが。しかし。
尻尾を振って、僕を見上げている彼の首には見覚えの有る、黄金色の鈴。ちりん、しりりん、と鳴る。
そして、くるり、と背を向けた。いや、猫の事だから、歩き出した。僕を向き、もう一度。
「にゃあ。」
歩き出す。僕は嘆息した。付いて行く他は、有るまい。付いて行きますよ、チコリさん。
がくがくと揺れる膝を励まして、僕は、歩き出した。猫の後に付いて。
思えば、極限状態の行動であった。
チコリを拾った時の事を思い出した。氷雨の降る日。我が家の濡れ縁の下でぶるぶる震えていた小さな仔猫。毛皮のお陰で、見付かりにくかった所を、買い物から帰って来たお袋への目印に、懐中電灯を振り回していた僕が、見つけて、覗き込んだのが、きっかけ。
凍え死ぬかも知れない。放って置けば。我が家の濡れ縁の下で。誰にも知られぬまま。誰にも気が付かれぬままに。
飼うと主張したのは、僕だった。
お袋が育てたハーブ畑。一際背の高い緑色の苗が人目を引き、花を見て、一層感心した。青紫の星型の花。
ハーブの花が、こんなに綺麗では、それは、誰もが夢中になるだろう。
こんな風に、でかくなれよ、チコリ。そうだ、お前の名前は、チコリにしよう。何だか、旨そうな名前だしな。
チコリ・コーヒーと言う飲み物が有るのだと知ったのは、その後だったのだが。
引き摺るようにして足を運びながら、僕は其処までを思い出していた。
目の前に、温かいフォルムを持つ建物を見出した時、それが、街灯に照らされているのを見て、僕は、座り込んだ。
それだけは、憶えている。
ベッドと言う物が、こんなに素晴らしい物だったとは。安全な場所で眠ると言うのは、まさに神の恩寵だ。
我ながら、ボキャブラリに絶対的に不自由な所は認めたく思う。申し訳が無い。
帰宅した後に、僕は気になっていた事を訊いた。
「チコリは?」
「其処にいるじゃない。」
足元に、当然の如くにじゃれ付いている、我が家の飼い猫を見て、僕は、取り敢えず、肩を竦めた。
それを知ってか知らずか、彼は差し出して見せた僕の指を舐めて、得意のレモン色の眼で僕をねめつける仕草をした。
「よしよし。」
僕も、いつものように、そのどっしり重くなって来た身体を抱き上げた。温かい。そう思った。
「いるでしょう?お前の旅行中も詰まらなさそうだったけれど、昼間は、出かけて、夜中に帰って来たりとかしていたわねえ。」
「ふうん。」
僕は、顎の下をかきながら、生返事をして見せた。
「猫の事だから、何処かに遊び場所でも見つけているのかもねえ」
母が言った。
それに返事するように、チコリは、大きく欠伸をした。伸びをする。その拍子に。
彼の首輪の鈴が、お帰りなさい、と、鳴った。
しりりん。りん。
* The End *
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