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何と言うことは無い一日。何と言うことは無い日常。
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 夜半から降り始め、白い暗幕が垂れ込める如くに降り続き、あっと言う間に、否も応も無く粉雪は大地を覆うに至ったのです。見渡す限りの雪の原が、其処に広がっていました。吹き荒ぶ雪は、尚も絶え間無く降り続けます。降り頻るのです。或る時音も無く、また或る時は凩に乗って。
 何時間も降る雪に、今や大雪原となった、標高の高い荒野の真ん中。ぽつんと置き忘れたかのような、小さな木造の小屋が一軒。雪降る時間に閉じ込められ、小屋の窓から漏れる灯火は、あかあかと、燃え盛るのです。暖色の極光を思わせて。
「お母さん。」
 囲炉裏の傍で、小さな男の子が、呼び掛けました。心配そうに。真っ赤になった小さな手が桶の真水でタオルをぎゅっと絞り、何時も甘えて頬ずりをして来た、熱を帯びた顔を撫で擦ります。熱の為に中々寝付かれないで居る顔を。
飾り気の無い寝具に横たわっているのは、少年の未だ若い、母親なのでした。外は寒いと言うのに、額に汗を一杯浮かべて、懸命に薄れがちな意識の下から息子を見遣ります。
 それに力を得て、少年は彼女に返事をして欲しくて、そっと呼び掛けるのでした。
「お母さん。」
「坊や。御免なさい。お母さんが熱を出してしまって。」
 長い黒髪、白い面の其の女性は、憐れみを込めて、父親に良く似た息子を気遣う言葉を紅い唇から紡ぎ出すのでした。
「私さえ、こんな身体にならなければ、とうの昔に、先発した他の一族の皆様や、お父様と一緒にもなれたろうに。」
 後の言葉は、苦しげな喘鳴に掻き消されました。
「僕のせいだよ。お母さんのせいじゃない。」
 堪り兼ねて少年は叫びました。
 其の目の前で。不思議な現象が巻き起こりました。いえ、恐ろしい出来事が。けれど、坊やは平然としています。
お母さんの美しい瞳がふと光ったかと思うと、坊やに差し伸べた手がぱたりと落ちました。同時に、美しい栗色のふさふさの柔毛が其処に生えて来ます。優しい顔が見る見る長くなって、耳が後退し尖り、忽ちの内に、威厳の在る牝狼の頭部が出来上がりました。いいえ。布団の中に居るのは、既に堂々とした、焦茶色の毛皮を持った森の精霊、狼です。月明かりにでは無く、囲炉裏の火と灯明かりに照らされたその姿は、狼そのものです。
 しかし、それも束の間。四肢を突っ張る容にして立ち上がろうとした狼は、その場に力無く倒れ伏して仕舞いました。あっと言う間に、元のお母さんの姿に戻ります。顔は汗びっしょり。ぜいぜいと吐く息を必死で整えながら、息子に呼び掛けます。
「坊や。」
「僕が、人間の姿の儘で行こうって。・…狼になって旅をするのは、嫌だって言ったから。悪いんだ。狼の姿になって旅をすれば、こんな事、起こりっこ無かったのに。」
 少年は俯きました。綺麗に揃えた二つの丸く小さな膝に、拳がそっと喰いこみます。その姿を、狼女であるお母さんは、やはり可哀相だと思うのでした。
 彼等は、狼男(女)の親子でした。
 丸っきりの完全な狼に変身出来る、狼男の一族。二人の間の一粒種である、夫婦どちらの特徴と能力をも受け継いだ少年。彼も極く幼い頃から、牙と爪と尻尾を持った狼に変身する能力が有りました。それは、この〈一族〉ならば、当たり前の事なのです。
 旅の途中、何人もの少年と同じ年頃の子供達を見掛けました。言葉を交わしたりもしました。しかし、彼等は、所詮普通の人間であって、満月の夜に狼に変身したりなど、決してしません。自分達の狭量の責任で、友達の少ない大人になってしまうのでは無いかと、それが心配なのです。
 お母さんは、囲炉裏からゆらゆら上る煙に煤けた天井を眺め、そっと息子に解らない容に、溜息を付きます。
 彼女は知っていました。自分の息子が、両親を愛している事を。けれど、少年自身が、自分が狼男である事を嫌っている事実を。変身したがらないのも其の為であると、母親ならではの観察力と直感で、解ってしまっていたのです。
 それは取りも直さず、自分自身を嫌う事であると、彼は、何時気が付くのでしょう?
 降る雪は、何も云いません。
 親子二人の窓を、真白な雪は、華奢な六枚の透明な花弁を広げて、徐々に覆って行くのでした。優しく。或いは決然と。
 昔々。其れは何時の事か解りません。
 何時の事か何処からか、南北に細長い此の島国に、普段は人間の姿をして暮らしていながら、満月の晩になると、正真正銘の狼の姿に変わる、或いは変身する一族、それとも集団が住まう様になったのです。何故かは誰も知りません。
 狼は、また、〔大神〕とも読めます。彼等の大いなる神が決め給うた事柄なのかも知れません。
 其の卓越した身体的特徴によって、彼等は季節が読めます。占いを良くし、古代の祭祀にも詳しく、一族が決めたリーダーには必ず従うとも云います。
昔は、人間とより良く共存していた一時期も有ったのかも知れません。世界中の様々な神話や民話に其れが見えます。晴れた昼間の水面に映った木漏れ日が、更に家の壁や天井に、動く影となって揺らめいています。ゆらゆらと。
 例えば、キリスト教の四大守護聖人のシンボルの幾つかは、ライオンや鷲ですが、何故、動物でなければならなかったのでしょう?聖杯や十字架でも良さそうなものですが?
 キリスト教初期、ライオンは敬愛というよりは、畏怖或いは恐怖すべき対象である筈でした。キリスト教信者は時の権力者、ヘブライの王達、時にはローマ皇帝といった、神の子イエス=キリストを毛嫌いする人々によって、苛烈なまでの迫害を蒙ったのです。彼等は奴隷の身分に落とされ、コロシアムに於いて、観客の見守る中、素手でライオンと闘わされました。多くの尊い血がコロシアムの大地の上に撒き散らされました。其の記憶、其の痛手も癒えぬ内に、彼等の旗印には、あかあかと鬣靡かせたライオンが燃え盛ったのです。殉教者の象徴?それとも。
或いは、茨の刺を身体から抜いて遣ったことを覚えていたライオンが、その相手だけは喰わなかった伝説に由来するものなのかも知れませんが。
 エジプト神話には、そのものずばりの、犬の頭を持つアヌービスと言う名前の神が登場します。守護の神です。犬の頭には忠実と警戒と言う性格が象徴として表されています。主神たるオシリスとイシス夫妻に、良く協力する姿が神話には描かれています。
 ギリシア神話には人間が動物に変身する類の神話が一つに纏められています。其の名も”メタモルフォーセス”つまり、『変身』。
 知恵有る動物、又は、人間の様に話す野獣の神話や民話は世界中に、胎蔵界曼荼羅の仏の姿より多く散らばっています。其の動物は多くは不思議な法力を有しています。ローマ建国の英雄双子のロムルスとレムスは、牝狼に育てられました。
 彼の有名なヨーロッパを震撼させたジンギスカン、鉄木真(テムジン)の元帝国。蒙古一族の祖先は、蒼き狼と生白き牝鹿です。
 顧みすれば、我が日の本の神話には、此れと云って、狼男や獣人に関する記述は見当たりません。もし、狼男や獣人に関する記述に限定すれば、ですが。
 酒呑童子退治で有名な坂田金時が、足柄山の金太郎と呼ばれた時代、動物達と話せた事は有名です。誰が最初に、幼児期にある金太郎坊やへ話し掛けたのでしょうか?悲劇の英雄源判官義経が牛若丸であった頃、彼に源家の大将として恥ずかしくない剣技や兵法を授けたのは、鴉天狗であるとされています。実際の彼等は深山に籠って修行していた修験者であるとするのが日本史の定説ですが、何故、彼等は殊更に正体を世間に曝してはいけなかったのでしょう?
又、聖者や僧都、仙人が幾多の動物や鳥、時には魚まで伴って姿を現すのは、物語の世界では最早常識です。全ての社や神域は“御使い”(猿や鹿、時には熊の場合も有ります)を眷族として使役していると言ってもおかしくありませんし、龍に変身した八郎潟の八郎、田沢湖の辰子の例を数え上げるまでも有りません(後に此の二人は婚姻したと伝説ではされています)。
真に以って瑞穂のみならず言霊集いて幸わう、八百万の神々しろしめす大八洲日出国日本は、神話の国ギリシアにも誇れる堂々とした独自の”メタモルフォーセス”を所有していると言っても過言では無いでしょう。
そう云えば、割合日本の神話とギリシアの神話は共通点が多いのです。
例えば、イザナギとイザナミ神話はオルフェウスとエウリディケの神話に酷似しています。どちらも、愛する女性を追って、冥府へと旅する道を選ぶのです。ペルセウスとアンドロメダの神話は丸っきりスサノオノミコトとクシナダ姫による、ヤマタノオロチ退治そのままです。両親によって、自分の娘が怪物への人身御供に上げられた処まで。また、ヤマトタケルことオウスノミコトの実在は神話でもありまた史実でもあるとされていますが、彼が父親である時の天皇から下された幾つかの難問奇問は、正に其の儘、ギリシアの大神ゼウスの妻ヘラに憎まれたヘラクレスの神話に見えるエピソードに、そっくりであると云えましょう。
ヤマトタケル。彼は死んだ後、白鳥になって飛び去った、とも云われています。
〈浅茅野原 腰なずむ 空は行かず 足よ行くな〉
晴れた大空を山向こうへ飛び翔けって行く、大きな白鳥を追い掛けて行った、生前彼の愛した姫君達が、走りながら、詠んだ歌であるとされています。…深い笹の原が、腰に纏わり付いて上手く追っては行けません。どうか貴方よ、空を行かないで下さい。行ってしまわないで下さい。私は足では行けません。…そう云う意味になるでしょうか。
ギリシア神話はシルク=ロードを伝わって日本に伝来したとも言われています。日本の神話伝説は起源発生からギリシア神話の影響を受けて来たのだそうです。だとすれば、日本人は其の歴史の始まりから正しくコスモポリタンであるとも云えるでしょう。
世界的に流布する狼男の伝説。其の肖像画は、或る時は鮮血に塗れ、また或る時は、満月の光に濡れ、めくるめく謎の紫色の絹布に包まれています。シルク=ロードを遥々越えて来たのは、果たして誰だったのでしょうか?
少年と御母さんが旅立ったのは、秋の深まる頃でした。永い時間馴染んだ山々の紅葉椛が、さらさらと別れを告げるかの如く、全山静かに彩る風景が、冷たい朝の空気と共に少年の敏感な鼻を一寸だけ湿らせたのを、今も覚えています。
沢山の沢山の小さな心の籠った手が振られています。黄色。赤。オレンジ。ピンク。ああ、落葉松の金色が風に舞い。ダケカンバの幹の白が目にも眩しい。さようなら。さようなら。またね。また会おうよね。何処に行っても、何処まで行っても、僕達私達、ずうっと、友達だよね。覚えているよね。覚えていようよね。
『うん。』
 頷いて、彼等は旅立ったのでした。高い空を、切れ切れの雲の下で、風が口笛を切なそうに吹いているのです。
彼等”大神”一族にとっては、長い間のそれは念願でした。しかし、迷って来たのは事実です。子供達はおろか、一人前の大人にとっても頭の痛い問題でした。
狼男の故郷を訪ねる旅に出る事がそれです。日本の何処かの山岳部に、その〈里〉は存在する。それは確かでした。〈里〉には”本部“が在ります。
”本部“には、現在の少年が所属する一族が必要とするもの殆ど全てが在る、と彼等はそう確信していました。彼等の一族集団は、現時点で切実に情報を欲していました。何よりも、他の’支部‘の状況を知りたい。何処の家族も我々と同じ様な境遇なのだろうか?別の生き方、方向性が有り得るのでは無いのだろうか?我々は其れと知らずに、一族の誰かを不幸にしてしまっているのでは無いのだろうか?
子供達の未来。其の言葉を彼等は考えました。切実に考えました。彼等狼に変身出来る一族は野獣では無く人間です。人間は集団の中で暮らす社交的な生物です。人間は学校に行って、高い教育を受けなくては行けません。其の時に一般人とも交わって暮らさなくては行けないでしょう。其れを躊躇っては行けないのです。〈一匹狼〉だなんて冗談を言っている場合では有りません。或いは友人だって出来るかもしれません。
或る日。一族の誰かが大変な情報を持って、〈街〉から帰りました。一族が住み暮らす山が、レスキュー部隊の大々的な集合訓練地になると言うものです。一族は騒然としました。もし、満月の晩に訓練が有ったら。もし、山中で偶然一族の者と任務途中の隊員が出会ったら。こんな事は考えたくも有りませんが、子供達の一人が彼等訓練を積んだ一般人に捕えられたら。もし。
…彼等は、どうなるのか。其の時、我々はどうするのか。議論は百出し沸騰しましたが、結論ははっきりしていました。
何よりも現在の此国では〈ニホンオオカミ〉は、珍しい生物だ、どころの話では無く、疾うに絶滅した筈の動物である事実が在るのも、果てしなく想えた議論にけりを付けるのに役立ちました。つい最近、北海道で其の姿を見掛けたらしい、と言うだけで新聞に記事が載ったのは、記憶に新しい処です。
もとより、平和的な彼等は、一般人と争う事を肯じ得ません。
山を捨てる。否、捨てるとまでは行かなくても、暫く遠方地から様子を見ては。其の為にも一族挙って〈里〉に行かなくては。〈里〉に行って一族の安全を図らなくては。そう結論しても、一族全員の決が取れるまで、三日間掛かりました。
彼等は旅立つ事にしたのです。
其の日から。其の晩から。或る者は変身して、また或る者は人間の姿で、こっそり旅立ち始めました。一人で自分の影を道連れにして。二人、三人後も振り返らず。それとも、一家族が支え合って。連れ立って、手を繋いで。ピクニックにでも出掛ける様に歌いながら。無言で。遠足や修学旅行、または社員旅行に見せ掛けて引率の先生やガイドの後を付いて。新婚旅行を気取って。歯を食いしばって。櫛の歯が欠けて行く様に一族の者が、彼等の山から消えて行きます。彼等の村から消えて行きます。
先発の御父さん達に遅れる事一週間。坊やと御母さんも旅立ちました。たった二人で。
「お父さんにはね、大事な御用件が有るのよ。」
傍らで落ち葉を踏み拉いて歩く坊やに、お母さんは言うのでした。
「だから、坊やは、お母さんと二人だけでも平気よね。」
 笑いながら言うお母さんを、本当に坊やは大好きなのでした。
初めての旅は、解らない事だらけでした。特に坊やにとっては、見るもの聞くもの全てが新鮮で珍しいのです。おかしな話ですが、生まれて初めて旅館に泊まって宿の温泉に、親子して入浴したのでした。何せ彼等が後にして来た村には、清らかな渓流沿いに露天風呂が有るので。ほっと優しい感触の白濁したお湯に浸かりながら、御母さんが煌めく様に歌った歌を、その後坊やは、折を見て思い出す事になるのです。
目立つのを恐れる旅でした。何もかもが輝いて見える旅でした。
そして、其れが起こったのです。
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 思った通り、彼は渋い顔をした。
 右手に紹介状入りの封筒。左手には名刺。
「私が信用出来ないんですか?依頼を受けられない、とは?」
「いいえ。違います。」
 私はかぶりを振った。
生き馬の目を抜くこの業界、他と違う所を見せなければいけない。
「正確に申し上げれば、貴方は当探偵事務所のビジネス規約に反していらっしゃいます。」
 中年の男は、座ったまま仕立ての良いブレザーのボタンをいじくり始めた。
「支倉さんからの電話を受けた筈だ。」
 彼は反論した。
「はい。今日のこの時間に、客が来る、と。」
 私は答えた。
 「じゃ、どうして…?」
 依頼人を信用させるのは、今だ。私は爆弾を落とした。
「貴方は、手ぶらに等しいその服装で、当方を訪問なされました。
大事な御話を赤の他人に相談なされるのならば、せめて、ブリーフケースぐらい、お持ち下されなくては。」
 しばし、黙り込んでから、彼は立ち上がって、私の本当の依頼人をドアから招じ入れた。

                     * The End *
「自慢することったって、特別に有る訳じゃないさ。」

コートのポケットに手を突っ込んだまま、彼は僕らと同じように、夜空を見上げた。

でも。僕は、こっそり、思っていた。今しがた、お腹一杯にして出て来たジョジフの店の“水晶雀”は、絶対に、そう一年に何度も食べられる訳じゃない。
何たって、フォークでつついた途端、じゅわっと音がして肉汁が染み出る位、柔らかかったんだもの。
それに。これは、食通のペルラン氏が言っていたから、確か。
“水晶雀”に良く合うワインを見つける事が出来たら、その店のソムリエは、ほぼ一人前どころか、一流と見なされて良い、と。
しかも、僕らのポケットから出せる、リーズナブルな値段で、だぜ。

「変わった事だって、別に無い。」

きらきらきら。きらきらきら。

この寒いというのに、満天の星達は、もっと良く見ろと言わんばかりに、輝き続ける。

ちょっと、白い息を吐きながら、駅までの道を、話しながら歩いても良い位、其処は、静かな、住宅街からも離れた、野原に挟まれた通り。
枯れ草が、こそとも動かぬのを見ながら、僕らは、ぽつぽつと近況を報告しながら歩いていた。
人力飛行機に対する、企業の熱意は、どうも、足りないのではないか、ひょっとしたら、お偉方は、マルシャークの、《空間固定化理論#2ver.1.01》に、目も通していないのでは、と言う、戦慄すべき結論に達していた時だ。

夜空をつんざいて、星が落ちて来た。
しどん。

右手前方、丘の頂上に、見事、落ちる。
とにかく、その地点には、歩いてもほぼ一分で辿り着く所だ。
誰かが僕らに追いついて聞いたものだ。

「色は?形は?重さは?」と。
僕らは応えた。
「まだ、解らないよ。」
すると、向こうは興味をなくしたように。
「何だ、その程度か。」
と言って、離れて行った。ま、そんなものかも知れないけどね。

特に年末からこっち、春に向けて、実際に流星の落ちるのが多い。ちょっとやそっとの物なら、屋根でも壊されない限り、みんな、スルーするようになっている。

僕は、傍らの友人に、途切れかけていた話題を繋ぐべく、話しかけた。なるたけ彼の横顔を見ないようにして。
「ウィディヴァハの、あの一件だけれど。やっぱり、君が悪いよ、君、彼の言っている事を、ろくに聞かないで、皆と、勿論彼とも一緒の旅行に行くことを了承してしまったんだもの。」
激しく、彼が息を吐き出して、また、吸い込む物音が、傍らでした。
彼は言った。
「そう思うかい?」
「思うさ。思うに、君、最近、上の空だよ。」
何を思ったか、彼は不意に歩調を早めた。彼の前方には、まだ、湯気の立つ、掌ぐらいのクレーターがある。
その其処には。小さな、小さな、星屑。
ようやっと、地上に着いて、長い旅の後の安らかな眠りへとつこうとしていたのかも知れないものを、僕の友人の、細い指がつまみ上げた。
何をするのか、何をする積りなのか、と、固唾を呑んで見守る僕らの前で、ぽきり、と、片端を、齧り折った。
健康な顎の動きが、星の欠片を咀嚼しているのが、良く解る。
「とにかくさ。」
彼は言った。口元から、星の欠片の欠片が、ちらちらと、光って、消えた。落ちたらしい。
「皆の言っている事も解るんだよ。でもね。僕は僕で、やりたい事も、やってみたい事も、はたまた、名前と存在は知っていても、それがどんなものかさえ知らないことも沢山有る訳で。」
いつもと同じように、何も無かったかのように、歩き出すじゃないか。
慌てて、僕はつられた様に歩き出す。彼の言葉に、いちいち相槌を打つのも忘れない。
夜は更けて行った。がやがや、わいわい。にぎやかな集団が、駅へと向かうのだった。

あいつは、大物だ。何のかんの言っても。

仲間達の評判が、それ以降、いや増したのは、この場合、確かな事実だった。
と、言えよう。

欠伸をして、長々と、背もたれの付いた椅子の上で、伸びをする。

ラジオではミスチル。

屋根を叩く、春一番。


春の気分(気分だけ)に流されそうで、

自分を保っていたくなるから。

少しばかり、J-POPは苦手かも知れない。

   なあに、意志の弱い奴がいかんのさ。

そう言えば。

春と言えば。

あれは、何だったのだろう?


子供の頃。小学生の中学年と言った位の頃。

白い壁が、周りを囲んでいる、何処にでも有りそうな空き地。

壁と言っても、木の板で出来た塀。

住宅街の中に縦横に張り巡らされたアスファルトの道路。

道幅は丁度良い寄りのアバウトな広さ或いは狭さ。車道なのか、

住民に使って欲しいのか、はっきり提示して欲しくなる。

道路から、塀の切れ目から、空き地が見えた。

午後だったと憶えている。

塀の切れ目から、中が見えた。ボストンバッグの横に座り込む、中年(だと思う)の女性。

その後姿。ニットの帽子。レザーのコート。

その時は、通り過ぎた。

二三時間後。買い物に行く母に付き添って、もう一度、其処を通った。

吃驚した。

一面の花。草花の小さな畑と化していた。

いや、畑には整然としたイメージが付きまとう。どちらかと言えば、

土管の上だろうが、中だろうが、溢れるように、ピンクの花びらが見えた。

花の上に、花。花の下に、花。黄緑色の茎、細めのジグザグに生えた葉の群れ。

件の小母さんは、横になっていた、咲き乱れる花に埋もれるようにして。

母は言った。

『あの小母さんが、丹精したのね。・・・抜いては駄目よ。』

普段、母は知り合いのお宅が軒を連ねる通りを使って、

自分が使う道を通ったのは、実に一年ぶりだったと、後で知らされたものだった。

次の日。朝の九時になっていなかった。

風邪気味の父の為、行きつけの薬局にお使いに走らされていた私は、こわごわ、あの道を通った。

見ないようにして、白い塀の向こうが視界に入る。私の足が止まった。

花は、無かった。綺麗に、茶色い地面が覗いた、いつもの空き地だった。

小母さんの姿は無かった。その時。

土管の中から、何かの、声が、いや、物音がした。

私は、走り出した。恐怖の余り。

『絶対に、猫じゃない。』

走りながら、息を切らしながら、私は何度も繰り返した。

『絶対に、犬でもない。』


薬局から私が帰った後、我が家の病人は、二人に増えた。


長い時間が過ぎた後、やはり、私は思う。


あれは、何だったろう・・・・?あの、物音の源は。

謎は、解ける事は無いかも知れない。

でも、多分、その方が良い場合も有るのだ。

私は、そう思う。

 

               * The End *

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