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何と言うことは無い一日。何と言うことは無い日常。
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抜き足差し足で雪の屋外に出た坊やは、ダッシュして走り出しました。後ろも振り返らず。
はあはあ、はあはあと、白い息が、断続的に夜を切り裂きます。坊やの吐く息が。
雪の冬山を、子供と若い女性が越えて行くのは無茶です。でも、彼らはやり遂げ様としました。自分達の為に。仲間の為に。誰も文句一つ言いませんでした。
そして、未だ雪降る山を下って、麓の街に食料と薬を買出しに行くのは、もっと無茶です。
到底人間の子供には出来ません。不可能と言うものです。
そう、人間の子供なら。
雪の上に、点々と足跡が、凍て付いた足音と共に其処に、最早迷いも何も無く、真っ直ぐに残されて行きます。見た人が居るならば、驚くでしょう。
雪が直ぐに覆い隠してしまうでしょうけれど。その足跡は子供用革靴の靴底の形では、絶対に有り得ませんでした。
小さな、仔狼の足跡だったのです。
彼は、毛皮の厚い狼に変身して麓の街に向かう事を決意したのでした。
あれほどに、嫌っていたのに。自分が、狼男の血を引いた狼男である事を。
あれほど、いやがっていたのに。
冬は寒いものだけれど、寒さは感じませんでした。
夜は暗くて怖いものだけれど、怖くも有りませんでした。あの灯り。
あの灯りの元に、きっと夢に見る程に希求した御薬も、新鮮な果物も在るのです。急な下り坂を一心に下る其の容子は、もしもお母さんが見たならば、お父さんにそっくりだと言うかも知れません。
雪は彼を取り巻いて、からかうかの様に、軽やかに舞っています。
雪に感情等、在る訳が無いのですけれど。夢中で走っている内、街灯が近くなって来ました。何時の間にか、足元も平坦に硬くなり始めています。
おや、あれは何でしょう?彼は寒椿の茂みに飛び込んで、人間の姿に戻り、携えて来た衣服を素早く身に着けました。而して、元の地点に戻ります。
大きな音を立てて、アスファルトの道路を疾駆する物。救急車です。真っ赤なランプを回転させて、同じく紅いランプを眩しく輝かせたコンクリートの塀に重々しく入って行きました。
二十四時間体制を敷いた救急病院。
泣きながら駆け込んで来た小さな男の子が、もう一台の救急車を発進させたのは、その間も無くの事でした。
雪は、何も言わずに彼等の頭上を舞い、街を白い帳に包み込みます。
さて、それからどうなりましたって?
無事に連絡が取れたお父さんが、慌てふためいて、其の雪の街を訪れたのは、翌日の夜遅くの出来事でした。
お母さんを見舞った後、坊やの話をふんふんと頷きつつ頭を撫でながら、最後まで辛抱強く聞いたお父さんは、こう言いました。あ、そうそう、いつか、何だか遠い昔の事の様な気がします、夢に出て来た、知らない男の子の事も。
「お前は、どっちに行きたかったんだ?」
「どっちって・…。」
「その男の子は、どうだか知らんが、まあ、忠告してくれたんだし。お姉さんの方は、多分お前が好きだったんじゃないかな?」
 だとしたら変わった愛情だと、坊やは思いました。
 二人が座っている場所は、検査室の前の廊下、長く黒いソファでした。お父さんはいつもと変わらず、にこにこ笑いながら、日焼けした顔で坊やを見詰めています。
「えっと。夢に出て来た男の子はいつか会えたら、一緒に遊びたいな。」
 坊やは足をぶらぶらさせました。つっかえつっかえ言いながら。
「そうか。兎のお姉さんは?」
 弾かれた様に、ぶんぶんと首を振る息子を見て、お父さんは声を立てて笑いました。で、お父さんはただでさえ力がとても強いのですけれど、大きな手で息子の柔らかい髪をわしわしと引っ掴んで言いました。
「彼が、普通の人間でも、か?」
「うん。」
 ますます御父さんの笑みが深くなります。
「よおし。いつか会える。絶対。此のお父さんが断言する。」
 お父さんは自分とよく似た色の息子の頭を持って振り回さんばかりです。其の時、待っていた物が訪れました。検査室の扉が開きました。中から白い光が零れます。清潔な白衣の、お父さんより少し年上の御医者さんが出て来ました。銀縁眼鏡の奥の瞳が優しそうな御医者さんです。
 二人は思わず立ち上がりました。御医者さんはにっこり笑いました。にっこり笑って言ったのです。
「もう、大丈夫ですよ。」
 此の事件で一番不思議な出来事は、其の直ぐ後、出来しました。御医者さんの言葉を聞きながら、小さな英雄は、太陽に照らされた真昼のアイスクリームさながら、くたくたと眠り込んでしまったのです。
 夢の中に今度は、彼は何を見たのでしょう?もしかしたら、やがて大きくなって、狼男じゃない友達と、それと狼男である友達と、一緒に、雪だるまやカマクラ、雪橇、ミニ=スキー。楽しく思い切り遊んでいる夢だったのかも知れません。
 其の夢に、今度は、真っ赤な瞳の白い兎が出て来たかどうかは、さあ、聞いて見なければ、解りませんけれど。


                * The End *
 

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